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豊臣秀吉が期待した五大老と五奉行の制度

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晩年の豊臣秀吉にとってもっとも気がかりだったのは、57歳の時に産まれた実子の秀頼が自分の後継として豊臣政権を担っていけるかということでした。
秀吉が自分の死を覚悟したころ、秀頼はまだ5歳でしたから豊臣家の家臣がいかに力を尽くそうと、政権を担当する能力などあるはずはありません。

秀吉亡き後、関東の徳川、中国の毛利など、有力大名が秀頼のような幼児に従うと考える方が不自然でしょう。隙があれば、天下を狙ってくるに違いありません。
そういう状況の中で秀吉が出した結論は、徳川家康らの有力大名を積極的に政権内部に取り込んで、政権の一員として秀頼を補佐させるという方法でした。

こうして生まれた五大老と信頼のおける家臣である五奉行の合議制によって、豊臣政権が存続することを願ったのです。

五大老と五奉行が置かれた理由は?

文禄4(1595)年、豊臣秀吉は後継者と目していた甥の関白秀次を謀反の疑いありとして、妻子やその侍女らを含む一族を処刑します。
これはその2年前に秀吉に実子の秀頼が生まれ、秀次が秀頼に天下を継がせる障害となるのを恐れたからだという説もありますが、真相は分かりません。

いずれにしても、姉の子という血縁的にも近い秀次を粛正してしまったために、秀吉は秀頼が成人するまで豊臣政権を維持するのに苦慮することになります。
豊臣政権は、摂関政治時代のように関白である秀吉(秀次)が、天皇の権威の元に公家や武家を直接支配するシステムでしたが、高齢の秀吉が亡くなれば、幼い秀頼にその役目が務まるはずもありません。

そこで、政権を有力大名や家臣の合議制にして、秀頼が成人するまでの政権運営を任せようと図ります。
それが、五大老、三中老、五奉行の制度でした。

これは、政策全般を有力大名である五大老と、豊臣政権の官僚である五奉行の合意で決定し、意見がまとまらない時は三老中が裁定役を務めるというもので、人数が多いだけに極端な政策には傾かないであろうことが期待されていたと思われます。

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有力大名を集めた五大老

豊臣政権が天下を支配する根拠となるのは、天皇から賜った関白の地位ではなく、天下に並びのない軍事力でした。
その豊臣政権の軍事力は豊臣家が強大な兵力を維持しているのではなく、臣従を誓った徳川家、前田家、毛利家といった有力大名が持つ武力を、いざという時に結集できるというものでした。
いわば豊臣家と有力大名による軍事同盟が、豊臣政権を成立させていたのです。

彼ら有力大名を一歩進んで政権内に取り込もうとしたのが、五大老の職制でした。
五大老とされたのは徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大名。
元々はこれに小早川隆景を加えた六人が大老でしたが、隆景は五大老が職制として制度化される以前に病没していたため、この五人になったのです。

関東一帯を支配する徳川家康、会津と越後を領有する上杉景勝、中国地方の覇者である毛利輝元は、いずれも秀吉が織田信長の家臣だったころからの有力大名で、現在は臣従しているもののいつ敵対してもおかしくない関係にありました。

一方、北陸を治める前田利家は共に織田家の家臣から出世した盟友ともいうべき存在。宇喜多秀家も秀吉の養女となった前田利家の娘を娶った豊臣一門に準ずる存在でしたから、先の三大名に比べて信頼はおけます。
徳川、上杉、毛利の三人を、前田と宇喜多で牽制していく、五大老の内情はこういうものだったでしょう。

この五大老の経済力は、徳川家康の256万石を筆頭に、前田利家83万石、宇喜多秀家57万石、上杉景勝120万石、毛利輝元120万石、五家合わせて605万石。これは220万石の豊臣家を大きく上回りました。
一般に1万石当たりの兵員動員数が300人程度といわれていますから、五大名合わせて18万の動員力となります。五大老が力を合わせれば、日本国内に敵はいなかったでしょう。

しかし、この制度はアメリカ大統領が不在になったので、英仏独露日の首脳が米国政府の閣僚といっしょにアメリカの内政を行おうというようなものですから、うまく行くはずもなく、秀吉没後は家康が五大老の立場を利用して逆に豊臣政権にゆざぶりをかけるようになっていくのです。

有能な官僚で組織された五奉行

五大老が豊臣政権外の有力者だったのに対し、五奉行は豊臣政権内の実力者で構成された行政組織でした。

五奉行筆頭の浅野長政は、秀吉の正室・ねねの養家であった浅野家に後に婿養子として入った、豊臣家にとっては親戚と呼んでよい存在で、太閤検地の責任者となるなど行政手腕にも定評がありました。

石田三成は、秀吉が近江長浜城主だったころに小姓として仕えた子飼いの家臣で、九州征伐での兵站に力を発揮するなど、これも優れた官僚的資質の持ち主でした。

増田長盛は、羽柴秀吉時代から豊臣家に仕え、行政面だけでなく軍事面にも実力をみせた文武両道に優れた頼もしい家臣でした。

丹羽長秀の家臣から秀吉の家来になった長束正家は、豊臣家の財政面を一気に引き受けた財務官僚でした。

僧侶から織田信忠の直臣となった前田玄以は、本能寺の変後に信忠の嫡男三法師を連れて脱出した人物で、一時、信忠の弟信雄の家臣を経て、豊臣政権の宗教政策を引き受けることになります。

五奉行は五人とも、秀吉が天下を取る以前からの忠実な家臣でしたから、秀頼を盛り立てて豊臣家の内政を担当していくのに不安はありません。
ただ、天下統一過程で得た領地を、敵対する可能性のある家康ら有力大名に恩賞として振る舞った結果、五奉行らの家臣は総じて石高が少なかったのです。

22万石の浅野長政、19万石の石田三成、22万石の増田長盛はともかく、長束正家は5万石、前田玄以に至っては2万石と、大名としては経済的にも軍事的にも小さな存在だったことが、後に家康が力を揮い出すと、実力を持って阻止することができず、大きな禍根を残すきっかけになるのです。

実態のなかった三中老

五大老と五奉行の間の仲介役敵任務を期待されたのが、生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏の三人の中老でした。

この三人はいずれも、織田信長の家臣から秀吉に仕えるようになった信頼のおける大名でしたが、中老としては大きな働きをしたわけではなく、三中老という制度そのものが確かなものであったかという根本的な問題も含めて疑問視されることもあるのです。

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