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今川氏真と徳川家康 主従関係の逆転があった2人の仲とは

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今川氏と徳川氏(松平氏)といえば、戦国時代は主従関係にありましたね。

強大な今川氏に従う松平(徳川)氏…という構図だったんですが、それが後に逆転するんです。それが、今川氏真と徳川家康の代でした。

ところがこの2人、そんなに険悪な中というわけでもなさそうなんですね。ちょっと不思議です。

気になる2人の主従関係逆転からその後を見ていきたいと思います。

家康が独立するまでの2人の関係

今川氏は駿河と遠江を支配する戦国大名で、氏真は今川家当主義元の息子として、家康は三河の土豪:松平広忠の息子として生まれました。

生まれたときから、2人の家は主従関係にあったわけです。家康は今川氏に人質に来ていたときに元服し、義元の「元」の字をもらって、次郎三郎元信(後に蔵人佐元康)と名を改めました。

しかし、1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討ち取られると、今川氏の力は目に見えて低下していくこととなります。氏真は後を継いだものの、三河・遠江の国人には今川氏への不満があり、離反や紛争が相次いでいました。

すると、家康は1562年(永禄5年)に信長と清州同盟を結び、今川氏からの独立を表明したのです。名前も家康と改め、義元からもらった「元」の字を捨て今川家との決別を示しました。これにより、主従関係は解消されることになりました。

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家康の発言「氏真に駿河を差し上げたい」…その真意は?

清州同盟の後、武田信玄と家康は今川氏の駿河に侵攻を開始します。武将としての能力に劣った氏真が対抗できるはずもなく、早々に駿河から逃亡せざるを得なくなり、掛川城を家康に包囲され、進退窮まってしまいました。

そこで、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城し、これによって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。

掛川城開城の際、家康・氏真・北条氏康(氏真の義父にあたり、武田の駿河侵攻に際して救援軍を差し向けていた)の間で、家康が武田軍を駿河から追い払ったときには、氏真を再び国の主とするという盟約が結ばれていました。

このことを家康はずっと覚えていたのでしょう。江戸中期の幕臣で歴史学者の木村毅斎(きむらきさい)による「続武家閑談」には、1582年(天正10年)に武田氏が滅亡した際、家康が信長に「駿河を氏真にあげてはどうか」と提案したと記してあります。

信長は「あんな役立たずの氏真にやれるわけがないし、不要な人間を生かしておくより腹を切らせた方がいい」と答えたそうで、結局氏真の駿河復帰はなりませんでした。

氏真は、妻の早川殿の実家:北条氏に身を寄せていましたが、義父氏康の死後は小田原を出て、なんと家康の庇護を受けています。

元の主君ですから、家康も見捨てられなかったのかもしれません。結局、江戸時代まで付き合いが続いていくのです。

氏真の子孫は、江戸時代に旗本に

豊臣秀吉の保護を受けたこともあったようですが、氏真は最終的に家康の元で江戸の品川に屋敷を得ます。

そして、彼の子孫は江戸幕府に仕えることになりました。孫の直房は高家今川氏の初代当主、二男の高久は高家品川氏の当主となり、彼の子孫は旗本として続くことになったのです。高家とは、典礼や儀式に関わる仕事をする旗本のことです。

By: yamakk

まとめ

結局、武将としての才能がなくても、人としてそれほど害がなかったおかげで、氏真は生き延びることができたのかもしれません。和歌について話したり、家康の所へ長々と世間話をしに行ったりなんて逸話もあり、ちょっとほのぼのした雰囲気が感じられますね。

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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