戦国の世において、男ばかりの戦場に、女性を連れて行くのはなかなか大変なことでした。
また、命がけで日々戦いに臨む主従としては、関係の強化という意味でも、必要だったことがあるんです…。つまり、男色関係ってやつですね。
というと、織田信長と森蘭丸などが思い浮かぶかもしれません。他にも、武田信玄とか、伊達政宗とか…とにかく、珍しいことではありませんでした。
豊臣秀吉にはとんとそうした噂がありませんでしたが、それでは、残る徳川家康はどうでしょう?
彼の側には、噂があった人物が1人いるのです。
それが、「井伊の赤鬼」こと井伊直政だと言われているのですが…これって、どうなんでしょうか?
はっきりさせたいので、検証してみたいと思います!
男色関係の真偽
まず、大事なポイントですが、直政は美男子だったと数々の書物に記録されています。
彼は元々は譜代の家臣ではありませんでしたが、家康に見込まれ、小姓として仕えるようになります。小姓というところもポイントだと思います。
また、武田氏の軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」には、「万千代(直政のこと)、近年家康の御座を直す」との記述があります。
この「御座を直す」とは、夜伽の相手をするという意味の隠語であるとされており、こういう記述が残るだけでも、そうした事実があったのではないかと考えられます。
加えて、武田相手に戦をしていたころの家康の寝室に刺客が押し入ってきた際、直政が返り討ちにしたという話も伝わっています。寝室にいたというのが、気になるところです。
男色関係でのお気に入りで出世を果たした!?
男色関係はあったのかもしれませんが、ただそれだけで出世させてくれるほど、家康は甘くはないと思います。
上述のように、小姓時代から武功を挙げ、元服してからも数々の戦いに従軍し、目覚ましい功績を挙げたからこそ、徳川四天王の誉れを得たのだと思います。
本来は外様であった彼に対して、譜代の家来たちの目は厳しかったはずです。
彼らを納得させるような働きがあったからこその四天王の呼称だったはずです。
直政の活躍ぶり
元服してからは、直政の働きはいっそう素晴らしいものがありました。
本能寺の変の後、浜松へと戻る家康の決死の伊賀越えのメンバーの1人でもありましたし、何より、「井伊の赤備え」を従えての大活躍が、彼の名前を轟かせることになりました。
武田遺臣を引き継ぎ、軍装をすべて朱塗りとした赤備えで、小牧・長久手の戦い以降、彼は常に先陣を切る凄まじいスタイルで、敵を震え上がらせていくのです。
一方、彼は外交官としても一流でした。1582年の天正壬午(てんしょうじんご)の乱では北条氏との講和に当たり、関ヶ原の戦いでは多くの西軍大名に調略を行って、東軍へと引き入れることに成功しました。
自身は島津氏との戦闘で負傷しながらも、本戦の後は毛利輝元との講和交渉など、西軍大名との講和に関して大きな役割を果たしました。
真田昌幸・信繁父子の助命に当たったのも、直政です。
武将としても外交官としても一流の、まさに文武両道の将だったと言えますね。
まとめ
かくして、家康にとっては得難い家臣となっていた直政ですが、島津との戦闘で負った傷が元でほどなく亡くなってしまいます。
この直前に彼は彦根に城を構えましたが、ここには、京都に近い場所を彼に任せた家康の篤い信頼がありました。
男色関係があってもなくても、彼は徳川四天王にふさわしい武将だったと思います。