徳川家康が今川義元の元で人質だった時代から仕えていた石川数正。
そんな彼は豊臣秀吉と徳川家康の間で行われた小牧・長久手の戦いの後に、出奔し豊臣秀吉に仕えるという信じられない行動に出ています。
家康の幼少時代から仕えていた彼がそんな行動をとったのには何か理由があったのでしょうか。
徳川家康の側近として
1533年に三河国で生まれた石川数正は、家康が今川義元の人質となっていた頃から近侍として仕えていました。
1560年の桶狭間の戦いにも家康に従って参戦しています。
そして、織田信長が今川義元を討って家康が独立すると、先駆衆として従い、今川氏の人質となっていた家康の長男:信康、駿府に留め置かれていた家康の正室:築山殿を取り戻しました。
1563年、三河で一向一揆が起こった際には、父の石川康正は家康を裏切りましたが、数正は一向宗から浄土宗に改宗して、家康に尽くしたため、家老に任ぜられ信康の後見人も任されました。
その後は姉川の戦い、長篠の戦いなどで武功をあげ、信康が切腹を命じられて果てた後は、信康が城主だった岡崎城を賜りました。
織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が台頭すると、家康の命令で数正は秀吉との交渉人となりました。
秀吉に謁見した数正は、「そなたは能力の割に認められておらん。わしならそれなりの地位を与えるのに」という言葉をかけられています。
徳川家を出奔 豊臣家へ
1584年の小牧・長久手の戦いに参戦した石川数正。
数正はこの時、家康に秀吉との和睦を提言したとされますが、秀吉と面会する機会を持つ毎に、秀吉との距離が近くなっていたのかもしれません。
1585年11月13日、数正は突如として一族郎党約100人を引き連れて、岡崎城を出奔し、秀吉の下に逃亡しました。
その理由としては、真実は未だにはっきりしていませんがこのような説が唱えられています。
- 秀吉と会う機会が増えるたびに、秀吉の魅力に惚れ込んで自ら投降した。
- 秀吉に提示された条件に目がくらんだので、仕える相手を変えた。
- 和睦を提案したことなどから、内通と疑われ、徳川家での立場が危うくなった。
- 信康の後見人を務めていたが、その切腹事件を発端として家康と不仲になった
スパイとして豊臣家に潜入?
出奔してすぐは秀吉も「徳川の譜代の家臣である石川が裏切るはずがない、何かの策ではないか」と厚遇しませんでした。
数正の出奔の理由として上記以外には、秀吉の思った通り、「家康からの密命により、徳川家のスパイとして豊臣家に潜入するため」という説もあります。
山岡荘八の『徳川家康』には、徳川家の武将たちは外交に向かない者が多かったため、数正は家康や本多重次との暗黙の了解で、あえて豊臣家に投降し、豊臣側から徳川家との外交を助ける役目となったとして描かれています。
徳川家の軍事機密を知り尽くした数正の出奔は徳川家に打撃を与え、家康は三河以来の軍制を武田流に改革しています。
もし、徳川家のスパイとして、豊臣家に潜入したのであれば、徳川家は軍制改革の必要はないのではないでしょうか。
しかし、先述の通り数正の出奔の理由については未だ真実は不明で、定説はないとされています。