諸説ある武田信玄の墓所! 甲斐の一大英雄のお墓はどこにある?
1573年(元亀4年、天正元年)に亡くなったとされる武田信玄ですが、実は、その墓所については諸説があります。
というのも、信玄公は行軍中密かに亡くなったと言われているからなんですね。
更に、その死を「3年の間は秘匿せよ」と自ら遺言したと言われ、その遺志を汲んだ後継者の勝頼が葬儀を行ったのは、実際に3年後の1576年(天正4年)のことでした。
そんなこともあって、現在、信玄公の墓所を名乗るお寺は複数存在します。いったい真相はどうなっているのか見ていくことにしましょう。
療養中に病没したとされる 愛知県の福田寺
武田信玄は本拠地甲斐の躑躅ヶ崎館から京都を目指し上洛するため、まずは徳川領だった三河・遠江へ進出を図ります。
ところが、その途上で信玄は体調が悪化し、甲斐へ引き返すことを決意。帰路の途中で亡くなったと言います。
実際に亡くなったのが帰り道のどの辺りなのか、ここから既に諸説があり、今のところ確定していないのですが、その1つにあたるのが愛知県北設楽郡設楽町の福田寺(ふくでんじ)です。
このお寺には信玄公の供養塔とその謂われを記した解説板があり、当寺には天正元年6月26日にご尊体を埋葬した旨の記録があると書かれています。
亡骸を運び火葬したと言われる長岳寺
一方、長野県下伊那郡阿智村駒場にある長岳寺(ちょうがくじ)にも、信玄公供養の十三重塔が立っています。
ここでは、武田信玄は甲斐国への帰路、駒場の山中で亡くなってこの長岳寺で荼毘に付されたと伝わり、供養塔は昭和49年、火葬塚から遺灰を移して境内に立てられたものされています。
勝頼が葬儀を執り行った武田家菩提寺・恵林寺
信玄公の没後3年の天正4年、葬儀が執り行われた場所は山梨県甲府市の乾徳山・恵林寺(えりんじ)。ここは武田家の菩提寺です。
このお寺にも武田信玄のお墓は存在しています。
魔縁塚?-甲府、武田神社近くに火葬塚が
武田信玄の居館(城)だった躑躅ヶ崎館跡地には現在、武田神社が建っていますが、この場所の近くの元家臣土屋氏の邸宅跡に、実は信玄公が埋葬されていたと伝わる火葬塚もあるのです。
菩提寺・恵林寺と同じ甲府市内にあり、正式な葬儀が上げられるまでの間、遺灰はその場所に仮埋葬されていたと伝えられています。江戸時代には、一時、魔縁塚とも呼ばれており、その塚を耕して田畑にしようとすると気絶してしまうなど、不思議なことが起こり、住民に恐れられていたと言われています。
亡くなったことを厳重に秘匿したことで埋葬場所が判らなくなった?
その他、山梨県の大泉寺、長野県の龍雲寺や諏訪湖水葬説、そしてなんと高野山(和歌山県)や妙心寺(京都府)にまで墓所があるとされます。
このように、信玄公の墓地については謎が多いのです。
どうやらそれは、逝去を3年間隠していたことの他に、その確証を敵に掴まれないよう、埋葬地も極秘にしていたことから来ているようです。
遺言にある諏訪湖に水葬されたという話は!?
ところで、江戸時代に書かれた「甲陽軍艦」では、信玄公の遺言は更にもう1つあったとされています。
その内容は「自分の亡骸は甲冑を付けて石棺に収め、諏訪湖の一番深い所に沈めるように」というもの。実際、1987年頃に諏訪湖の水中に何か人工的に作られたような菱形の窪みが見つかったこともあり、当時は大変な騒ぎになったとか。
けれども、5年をかけた調査の結果、その窪みは人工物ではなく自然のものと結論づけられました。
ですが、この調査は諏訪湖に実際人間が潜って確かめたというわけではなく、ソナー等を使ったものだったため、「武田信玄水葬説」は未だに根強い人気がある説です。
まとめ
さて、これまで色々ご紹介してきた信玄公埋葬場所の諸説、皆様はどうお感じになりましたか?
私は調査しているうちに、どれもそれなりに本当らしくて、調査前よりもなんだか判らなくなってきたというのが正直なところです。
亡くなった場所についてはどうやら長野県の駒場説が今は有力なようですが、遺骸は火葬されたということなので、大軍の進軍と共に持ち運べば遺骨や遺灰はそんなに目立たないでしょうし、そう考えると本当に判らないですよね。
でも、もしかしたら、それで良いのかもしれませんね。だってその方がロマンがあると思いませんか?
お墓とされる場所がたくさんあるということは、信玄公がそれだけ人気のある武将だという意味も持つでしょう。日本の各地で親しまれお参りされていることを、天国の信玄公も喜んでいるかもしれません。