武田信玄の居城 躑躅ヶ崎館はどんなものだった?
桜の季節が終わり、躑躅の綺麗な季節がやってきました。
躑躅でツツジと読みます。
甲斐の虎と恐れられた武田信玄の居城はこの花の名前と同じ、躑躅ヶ崎館といいます。
戦国最強の武将の住まう館の名前としてはあまりに優美な名前ですが、一体どんなところだったのでしょうか。
これは城か?
城といえば、天守閣と濠を備えた姿を想像しますが、躑躅ヶ崎館に天守閣はありません。
躑躅ヶ崎館は、外濠・内濠・空濠に囲まれた三重構造をもちますが、その中心となる建物は天守閣でも本丸でもなく、本殿と呼ばれます。また、回遊式庭園や移動式の能舞台があるところも他の城とは異質なところといえるでしょう。
北東の一角には信玄の持仏を納めた毘沙門堂があり、いかにも信玄らしい仏教信仰を感じさせますが、ここも連歌会や歌会に利用されていたことが『甲陽軍鑑』に記されています。
実際、建物の配置や名称などは「花の御所」と呼ばれた室町幕府の中心となった足利将軍家邸宅に強い影響を受けているといわれています。
なぜこんな形に?
なぜ、戦国武将の邸宅でありながらもこんなに優雅な雰囲気が漂う造りになっているのでしょうか。
そこには武田氏が甲斐国の守護職を勤める家柄であったことに大きな理由があると考えられます。
出自不明や”自称”源氏をなのる戦国武将もいる中、信玄の生まれた武田氏というのは、清和天皇の血脈を受け継ぐ由緒正しい清和源氏の一門です。
こうした家柄の良さもあってか、信玄は京より公家を招き、詩歌会や連歌会を行ったり、自らも和歌や漢詩を詠むなど、教養の高さをうかがわせる話も残されています。
躑躅ヶ崎館は父・信虎によって築かれ、その後信玄、勝頼の3代60年あまりにわたって、甲斐国の政治の中心となった場所でした。
由緒正しい家柄ゆえの格式と伝統を忍ばせる居城といえるでしょう。
守りは大丈夫だった?
優雅な造りでも、守りが甘ければ戦国武将の居城としてはいまいちといわざるをえませんが、躑躅ヶ崎館はどうだったのでしょうか。
躑躅ヶ崎館は甲府盆地の北端に位置し、南に流れる相川の扇状地に築かれています。東西を川に囲まれ、背後には標高770mの要害山がありました。
信玄の父・信虎は背後の要害山に詰の城として要害山城を築き、また、西に湯村山城、南に一条小山城(現在の甲府城)を配置することで、館の防備を固めたのです。
信長が甲斐に攻めてきた際には新府城に移転しており、躑躅ヶ崎館を舞台とした戦闘は行われたことがないのでその守備力が実際のところいかがなものであったかははっきりとわかりません。
しかし、「要害山」の名前の通り、自然の要害であるこの山のふもとに構えている点など、守備の面も考えられた居城であったといえると思います。
勝頼が信玄の死後すぐに新府城に移ってしまっていることを考えれば、一般的な形の城よりも守りが甘かったとも考えられますので、信玄が戦乱の世で優雅な居館に住まうことができたのも、彼の強さの証なのでしょう。