藤堂高虎の超個性的な兜には、何か深い意味があった!?
変わり兜にも色々ありますが、その中でも藤堂高虎所有と伝わる兜は特別な存在感を放っています。
現代人ならきっと誰もが、一目見たら驚くようなデザインではないでしょうか。
戦国時代に活躍した武将達は個性的な人物が多く、またその個性を主張するアイテムとして、戦場で身につける兜は格好の材料でした。
ですが、あの時代はある程度自己主張が強くないと軍勢を率いたり、民を統治するのは難しかったんでしょうけどね…。
ちなみに合戦以外の分野でも個性的な才能を発揮していた武将も数多く、例えばお医者様も真っ青の健康オタクであった徳川家康とか、並みいるお公家様方を差し置いて当時の和歌の達人No.1として尊敬を集め、料理人としての腕前も超一流だった細川藤孝(幽斎)とか、本当に色々な人がいます。
今日ご紹介する兜の主、藤堂高虎も実は素晴らしい特技の持ち主でした。
彼の名人芸は築城で発揮され、あの熊本城を建てた加藤清正と名手ナンバーワンの座を争うほどの腕前です。
ただ、あの兜だけは、ちょっと…。これが当時としても結構とんでもない代物だったおかげで、後には悲劇も起こってしまいました。
藤堂高虎の変わり兜、黒漆塗唐冠形兜は伊賀上野城に
さて、問題の兜は実物が現存しています。黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬり・とうかんなりかぶと)と呼ばれ、三重県伊賀市にある伊賀上野城の天守閣(模擬天守)に展示されているものがそれです。
このお城、残念ながら現在の天守閣はあまり高虎時代のそれとは似ていませんが、城郭全体は高虎が設計した、石垣で名高い名城です。
三重県の県庁所在地、津市の津城跡には唐冠形兜をかぶった姿の藤堂高虎の銅像もありますので、実際にかぶったらどんな感じの兜だったのか、イメージを掴みたい方はこちらで銅像をご覧になるのも良いかもしれませんね。
唐冠形兜は当時の流行の形 だけど藤堂高虎の場合は
安土・桃山時代には、兜は武将がその存在感を示すための重要アイテムとして扱われ、各武将によって色々な形のものが考案されていました。
その中でも、中国の冠(こうぶり、官僚や貴族がつけていたかぶりもの)を模した唐冠型の兜は流行のスタイルで、現代にもその多くの例が残されています。
これは、能楽の衣装としてかぶられていたものにヒントを得て作られたと言われています。
見た目を簡単に説明すると、後ろ側につけられた纓(えい)と呼ばれる横に張り出した部分が立物(たてもの=兜の飾り)になっていて、まるでウサ耳のように左右に突き出ているような兜という感じです。
藤堂高虎が所持していた問題の兜も一応流行りの唐冠型だった訳ですが、纓がケタ外れに長く作られている点が他とは一線を画しています。
能楽では纓の大きな唐冠は鬼神・荒神がかぶるものなので、強さを誇示するためにそれにあやかったのかもしれませんが、それにしてもこれはちょっと長過ぎじゃないでしょうか。
実際、長さは片側で90cm近くもあるそうです。申し訳ないけど、こんなものをかぶっている人の側には味方でもあんまり近寄りたくないですよね。
下手に振り向かれたら、こちらが怪我をしてしまいそうです。この長さには、何か深い意味はあるんでしょうか。不便なだけじゃないかと思うんですけど・・。
人が多い場所は絶対に通れそうもないですし、山道などでもすぐ周りの木に引っかかってえらく苦労しそうです。
もしも実戦ではかぶらずに何かの儀式のような時にだけ使われたものだとしても、取り扱いに神経を使う必要があって、従者や家臣が大変な思いをしそうだな、なんて変な心配までしちゃいます。
特に兜で目立ちたい訳じゃなかったんですが、義理もありまして
タネを明かせば実はこれ、藤堂高虎が主君から貰った拝領物の兜だったのでした。なるほど、主君から拝領したとなると、ちょっとありがた迷惑でも「いりません」とはなかなか断れないでしょうね。
しかもその主君がものすごく偉い人だったら尚更でしょう。高虎のケースはまさにそれで、巨大な纓を持つ黒漆塗唐冠形兜は、豊臣秀吉から拝領した兜だったと伝わっています。
ふむふむ、派手好きで有名な秀吉が最初の持ち主だとしたら、このびっくりするような大胆な形も、なんとなく腑に落ちるという感じがしないでもありません。
気になる「周りの人に迷惑なんじゃないか疑惑」もちゃんとオチがあります。実は藤堂高虎という人は大変な長身で、身長を現代で使われている数字で表せば194cmあまりもあった人でした。
普通の人は男性でも150cmより少し大きい位の身長しかなかった時代ですから、あの、まるで巨大ウサ耳(?)な立て物は人々の頭の遥か上方にそびえ立っている感じだったでしょう。
ですから、少なくとも人間相手にはあまり実害を与えていなかった可能性が高いです。でも、最初の持ち主だった秀吉は当時でも小柄だったという記録が残っているので、こちらの場合はやっぱりちょっと大変だったかもしれません。
もしかしたら、できるだけ派手で目立つものがいいと思ってあの兜を作ってはみたけれど、かぶりづらいデザインだったことに気づいて持て余し、大男の高虎に目を付けて下げ渡してしまった可能性もありそうです。(単なる想像ですが)
高虎の方も結局この兜を長く所持することはなく、時期がいつ頃かは不明ですが、親戚で家臣の一人、藤堂玄蕃良重に下賜しています。多分、秀吉の下を離れて徳川家康に仕官した後ではないでしょうか。
兜が目立ち過ぎて藤堂高虎の忠臣が討ち死にした、悲劇の大坂夏の陣
ところで、高虎から黒漆塗唐冠形兜を拝領した藤堂良重は、高虎と共に徳川方として大阪夏の陣に参戦した際、このすごい兜をかぶって戦ったと伝わっています。
ですが、あまりにインパクトの強い兜ゆえに豊臣方の目を引き、しかも「あれは藤堂高虎だ!」と主君に間違われてしまいました。
そして、名のある武将を討とうと殺到した豊臣勢の攻撃を受けて、瀕死の重傷を負ってしまいます。鬼神どころかとんでもない悲劇を巻き起こす疫病神な兜だった訳ですね。
合戦の後、味方が傷の深い良重を休ませようと小屋に連れて行き横たえたところ、彼は虫の息の下でも、主君から貰った兜の長い纓が狭い小屋で傷つかないかと心配し、自分のことよりその事ばかりを気遣いました。
良重は間もなく命を落としますが、高虎はこれを「手柄の討死」と讃え、残された遺族に感状を与えています。