明治を生きた新撰組隊士 斎藤一の後半生とその子孫
新撰組隊士として、幕末の世にその名をとどろかせた斎藤一。
いくたびも改名し、多くを語り残すことなく亡くなったため、その生涯は多くの謎に満ちていると言われています。
今回は、激戦と言われた会津戦争で生き残った斎藤一の、その後の人生を、改名の遍歴と共に追ってみたいと思います。
会津戦争で生き残る 【山口次郎】
新撰組が京で活躍していた頃、斎藤一は一度、新撰組から離隊しています。
参謀の伊藤甲子太郎が、御陵衛士として新撰組と袂を分かつとき、藤堂平助らと共に伊藤についていったのです。
実はこの離隊は、近藤勇・土方歳三の命を受け、諜報活動のために、御陵衛士に潜り込んでいたと言われています。
斎藤の諜報活動でもたらされた情報をもとに、1867年の油小路の変にて伊藤甲子太郎の暗殺がなされましたが、他の隊士にも極秘であった諜報活動であったため、斎藤が新撰組に帰営するには、ほとぼりを覚ます必要がありました。
名前を斎藤一から山口次郎に変えたのもそのころです。
戦況は刻一刻と悪化し、錦の御旗を掲げた新政府軍に、幕府軍の急先鋒であった新撰組は敗走に次ぐ敗走を余儀なくされます。
やがて、新撰組は浪士組から新撰組へと自分たちを取り立ててくれた会津藩主:松平容保の元へ徹底抗戦の意思を持った会津と共に戦うために向かいます。
しかし、敵の手はすぐそばまで迫り、会津の陥落は時間の問題とまでされていました。
近藤亡き後の新撰組を率いていた土方歳三は、会津の不利な戦況を見抜きすぐさま仙台に向かい幕府陸軍と合流、体勢を立て直そうと画策します。
しかし、恩義のある会津をこのまま見捨てても良いものか…土方にも葛藤はあったはずです。
その葛藤を見抜いたように「志を捨て去るは誠義にあらず」と会津に残る決意をしたものがいます。
それが斎藤一こと、山口次郎でした。
その後、戊辰戦争中もっとも凄惨を極めたと言われた会津戦争は、多くの犠牲者を出しながらも会津藩の降伏により終結しました。
斗南時代【一瀬伝八】
戊辰戦争に敗れ降伏した会津藩は、改易になりますが、その後許されます。
会津領の没収の代わりに与えられたのは本州最北、斗南の地でした。
会津藩の助言があったのか、降伏し尋問を受ける際に斎藤一は会津藩士「一瀬伝八」と名乗っています。幸いなことに深くは追及されず、ここに斎藤一の会津藩士として生きる道が現れました。
会津藩は斗南藩となり、一万七千三百人が、移動となりました。斎藤一こと一瀬伝八もそれに伴い、斗南の地に移住します。
斗南は極寒の地。食料も乏しいため餓死者も出るほどで、まさしく塗炭の暮らし出会ったと言われています。
そんな苦しみを会津の人々と共にすること、それが斎藤なりの会津への恩を報いる形だったのかもしれません。
その頃、旧会津藩士で病没した篠田内蔵の長女やそと、「藤田五郎」の名で夫婦になっています。(明治四年二月頃。五戸町の戸籍による)
その後、理由ははっきりとは分かっていませんが、斎藤一はやそを残して単身上京しました。
そして東京で、元家老の佐川官兵衛、陸軍に出仕していた山川浩が下仲人、旧会津藩藩主の松平容保が本仲人で、時尾という女性と結婚しています。
時尾は会津藩の名門で大目付の高木小十郎の長女。斎藤一の婚姻にかかわったこのそうそうたるメンバーを見ると、斎藤がいかに会津の「同士」として受け入れられていたかがうかがえます。
時尾との間には、勉・剛・龍雄の三人の男子をもうけています。
警察官時代【藤田五郎】
斗南から上京した斎藤一は佐川官兵衛や山川浩のすすめで警視局(現警視庁)に入りました。
明治十年、鹿児島では西郷隆盛が蜂起、国内最大の内戦である西南戦争が勃発しました。戊辰戦争では官軍側として新撰組を追い詰めた薩摩が、今度は賊軍となってしまったのは何という歴史の皮肉でしょう。
明治の武人として、西南戦争討伐に向かう斎藤の心境はいかばかりか。
西南戦争勃発から五か月ほどたった7月12日、数々の激戦を潜り抜けた斎藤一は、白兵戦の最中被弾、瀕死ではなかったものの傷は深く、戦争終結までついに前線に復帰することはかないませんでした。
その後も警視庁に勤務し、48歳で退職するまで警察官を貫き、その後は東京高等師範学校付属東京教育博物館(現国立科学博物館)の看守、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛として就職しました。
晩年
「死んだら、阿弥陀寺の会津戊辰戦死者の墓の傍らに埋めてもらいたい」
旧知の山川浩の邸宅を訪れてはそう語っていたという斎藤一は、大正四年(1915年)9月28日、永眠しました。
死因は胃潰瘍で、死期を悟った斎藤一は家族に床の間まで運んでもらい、剣客らしく端座したまま亡くなったと言います。享年72歳。
奇遇にも、新撰組幹部として共に戦い生き残った永倉新八も、同年の一月に病死しています。
幕末、明治、大正と、激動の時代を駆け抜け、志半ばで亡くなった同志たちの分まで長生きした一人の武士の「義の貫き方」は、今もなお私たちの心をとらえて離しません。