「甲斐の虎」・武田信玄と「越後の龍」・上杉謙信。
同じく仏門に学び、法名を名乗って、信濃を巡り対立した二人は戦国きっての逸材でありながら共に天下を治めることはありませんでした。
二人はどんな関係だったのでしょうか。
謙信は信玄が嫌い?
お互いに相手のことを「凶徒」と罵り、神仏に征伐を祈願したといわれる信玄と謙信。
二人の度重なる対立の背景には謙信が信玄を嫌っていたことがあるという説があります。その理由としては、
- 信玄が父・信虎を追放したことや、謙信の家臣を煽り反乱を起こさせたことなどが謙信の美的感覚にそぐわなかった
- 領地拡大のためなら情け容赦無く、同盟破棄や名跡剥奪などにより攻め滅ぼし、しかも攻め取った土地を確実に自分のものにするところが気に入らなかった
- 同盟関係にあった諏訪氏を滅ぼし、その娘を妾にしたことが理性的に受け入れられなかった
といったことが挙げられているようです。
確かに、謙信といえば領土欲も天下への野心ももたず、己の信じる「義」のために戦ったといわれる人格者。信玄とは根本的に考え方が違うように思われます。
しかしながら、戦国の世においてこうしたことはよく行われていることですから、一々謙信が嫌悪感を露わにするほどのことではないですし、だから5回にも及ぶ川中島の戦いが起こったのだと考えるのは少し短絡的な気がします。
二人は恋愛関係!?
一方で二人は恋愛関係にあったのではなんていう説が存在します。
これは同性愛の話ではなく、謙信女性説に基づくものです。
謙信が女性だったという説はスペインの船乗り・ゴンザレスという人物が日本の佐渡金山に関する報告書にあった「上杉景勝の叔母」という表現が謙信を示しているという説が発端となりまことしやかに噂されてきました。
現在も謙信を女性として描いている小説やゲームが数多く存在します。さらには二人は遠距離恋愛に耐え切れなくて川中島の戦いを起こした!なんて説がちまたには存在するらしいですが、まさかでしょう。
そもそも謙信女性説自体かなり眉唾もので、ゴンザレスの書簡にある「叔母」に関してもスペイン語で「tia」と表記される叔母と「tio」と表記される叔父を誤った可能性もありますし、「a」と「o」なら見間違いという可能性もあるのではとも思います。
他にも根拠として、彼の死因である「大虫」というのは「味噌」の女言葉で、味噌が赤味噌を連想させることから「月経」の隠語であることや、謙信について「男もおよばぬ大力無双」と表現した瞽女歌があること、月に一回極度の腹痛で引きこもっていたことなどが挙げられています。
しかしながら、これも死因が月経なんてちょっと信じがたいですし、「男も及ばぬ」というのも「男以上の男」という表現のひとつにも捉えることができるのではないでしょうか。
でも、最後の月に一回の腹痛は少々気になりますね。
二人の間にあった尊敬の念
5度にわたる川中島の戦いの後、信玄は持病が悪化し亡くなってしまいます。
その時、信玄は遺言として息子・勝頼に
「勝頼は謙信と和睦するようにせよ。謙信は男らしい武将だから、勝頼の様なまだ若い者につらく当たる様な事はあるまい。そして、和睦が成立したのちもへりくだっていれば、決して約束は破らないはずだ。この信玄は大人気なくて、謙信に頼むと一言いえなかったばかりに、和睦する事が出来ずに戦い続けてしまった。しかし、勝頼は必ず謙信に頼むと言って頭を下げ、和議を結ぶ様にするがよい。謙信はそうするに足りる人物だから」
と言い残したそうです。
謙信の方もまた、信玄の死の知らせを聞いた時、涙を流してその死を惜しんだとか。直に対決したのは第4次川中島の戦いの時だけでしたが、その過程で共に「軍神」の名にふさわしい人物であると認めるに至ったのでしょう。
信玄の突然の死去により二人の戦いに決着はつかず、同盟を結ぶにも至りませんでしたが、もしお互いが同盟を結び酒を飲み交わすことができたなら、無二の友になれたかもしれません。