徳川秀忠の大遅参!天下分け目の戦い関ヶ原に遅れた事情とは
あの時、関ヶ原に遅参してしまった…。これが江戸幕府2代将軍、徳川秀忠(1579-1632)に深く突き刺さった、大きなトラウマでした。
彼は徳川家康の息子で後継ぎだったわけですが、歴史的に有名な”関ヶ原の戦い”が行われた場に到着が間に合わず、大幅な遅参をしてしまったことで、武将としての手腕を疑問視されている向きがあります。
この時、秀忠は約3万8千と言われる大軍の指揮を任されていながら、真田昌幸・信繁父子が立て籠もる上田城攻防の思わぬ長期化もあり、関ヶ原で行われた「天下分け目の大決戦」に間に合わなかったのです。
おかげで父家康の逆鱗にも触れてしまいました。
ですが、実はそうなるまでには色々と、やむを得ない事情があったんです。
徳川秀忠にとって深刻なトラウマになってしまった関ヶ原への大遅刻
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)。美濃関ヶ原では石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍、2大勢力の戦いが行われ、徳川方の東軍が大勝利を収めます。
ところが秀忠が父の許に駆けつけたのは9月20日。関ヶ原で勝敗が決してからなんと5日も後に、ようやく秀忠は家康がその時滞在していた近江の大津城までたどり着きます。
早速父に会って、とにかく直接遅参の詫びを入れようとした秀忠でしたが、家康は「体調が悪い」と仮病を使い、顔を見ようともしてくれません。家臣のとりなしでなんとかその3日後に伏見で面会することができたのですが、その間にも、東軍に参加していた外様大名(福島正則など)やその軍勢がまだ行動を共にしていました。
面会を拒絶されていた間、若い秀忠はバツの悪さと恥ずかしさと悔しさでいたたまれない気持ちだったろうと思います。
この時の大遅参は彼にとって相当なトラウマだったとみえ、後々までその影響を引きずっていたようです。14年後に行われた大坂冬の陣の時の秀忠は、今度は逆に江戸からまっしぐらに京都伏見までを物凄い勢いで行軍し、歩兵が大半の6万に及ぶ大軍を率いながらも、わずか17日間でその旅程を踏破するという超速進軍ぶりをみせます。
ですが、そのおかげで全軍がへとへとに疲労困憊することになり、それを知った家康はまた「兵が使いものにならないような、そんな状態で戦ができるか!大将のすることではない!!」と大激怒してしまいます。
徳川秀忠という人は普段は別にKYだったり無茶ぶりを連発する感じの人ではないので、この行動はやはり、関ヶ原に間に合わなかったせいで心に受けた傷がかなり大きかったせいだと思われるのです。
実は、ほぼ全て大雨と通信手段未発達が関ヶ原遅参の原因
関ヶ原に間に合わなかった理由は、本来、秀忠の落ち度により生じたものではありません。遅くなってしまったのは偶然の出来事が重なった結果でした。
家康も本当はその辺を分かってはいたらしいのですが、大津城に秀忠が到着した時にはやっぱり関ヶ原で活躍した外様大名達の手前もあったりで、どうも見栄とストレスによる八つ当たりで怒りを爆発させてしまったようなのです。
その証拠に、秀忠に同行していた武将、榊原康政や本多正信らに対して、戦後特に処罰等は行われていません。
秀忠にとってはこの時の出陣が実質的な初陣だったため、本当に重大な落ち度があったとしたなら、彼の後見につけられていた諸将にも何らかの咎めはあるはずです。
この”遅刻”現象が生じた最大の原因は江戸城の家康から、宇都宮から東山道を使って西に行軍中だった秀忠に宛てて8月29日に出された、「急いで西上し、9月10日までに美濃大垣に着くこと。自分も東海道を使ってこれから西に向かい、そちらと合流する」という内容の書状がなんと、9月9日まで秀忠の元へ到着しなかったことです。
書状がやっと手元に届いた時、秀忠は徳川家の宿敵・真田昌幸の居城である信州上田城攻めに苦戦している最中でした。そこから美濃(岐阜県)の大垣まで、3万を超える軍勢を引き連れて1日でたどり着けというのは、全く実現不可能な話です。
そして、書状を託された使者:大久保忠益が秀忠の許に到着するのにそんなにも手間取ったのは、季節柄の大雨で利根川が増水したため、どうしても渡ることができず、途中で足止めを食らってしまったからでした。
現代ならこういう連絡事項もEメールやLINEを使えば秒速で相手に届きますけど、悲しいかな、戦国時代ではそうもいきません。
秀忠は忠益から書状を受け取った後、ただちに上田攻めを中止して急ぎ大垣へと向かいましたが、結果として、家康の許に到着できたのは関ヶ原の合戦が終わってから5日も経った後の、9月20日のことでした。
秀忠の上田城攻めは、当初家康が立てた計画通りの行動
このあたりの事情に関する解釈は少し前まで、「秀忠は上田城を簡単に落とせなかったので自分の面子にこだわり、上田城攻めに執着して関ヶ原に遅れてしまった」という考え方が主流でした。
ですが、最近は古文書の研究が進んで前よりも詳しく当時の状況が明らかになり、その説は否定される方向にあります。
まず、家康が宇都宮にいた秀忠に出した命令はズバリ「上田城を攻めよ」というものだったと今では周知されています。つまり、秀忠は自分が受けていた家康からの命令を忠実に実行していただけなのです。
しかし、福島正則・池田輝政など外様大名の活躍により岐阜城が1日で落とされる(8月23日)など、戦いの様相は当初の徳川方の予想よりずっと早いペースで東軍有利の方向へと次々事情が変わっていきます。これは決戦が早まりそうだと察知した家康は、秀忠に戦略変更の書状を出した後、すぐに自身も軍勢を率いて江戸を出発し、急ぎ西へ向かいます。
その大事な時に、書状の到着遅れが原因で秀忠が関ヶ原に間に合わなくなるという重大なミスが生じたのです。
ところが、家康の方では直前までそんな状況になっていることを把握しておらず、考える余裕もなかったようで、何か不都合が生じているらしいと気づいて驚いたのは尾張の清洲城まで自軍を進めた頃のことでした。
ですが、その原因は人為的な過ちではなく、各地で降った大雨のせいだった訳です。そのため、使いに出された大久保忠益に対しても、後で何か処分が下されたりはしませんでした。
秀忠と徳川隊が遅参したおかげで、関ヶ原で勝っても喜べなかった家康
しかし、そのおかげで、関ヶ原の決戦では福島正則や黒田長政、細川忠興など大勢の元豊臣家臣達が目立った軍功を挙げるという事態になってしまいます。
徳川家康にしてみたら今後のことを考えるとここは是非、秀忠率いる徳川軍にも手柄を立てさせて、全国の大名に威信を示したかったところでしょう。(自分が率いていた本軍は、総大将の軍であるため軽々しく動かす訳にいかないので。)それが叶わず、事の成り行きに歯がみをするくらい悔しかっただろうと思います。
また、当時の慣習により、手柄を立てた者には相応の論功行賞が必要です。
つまり、言い替えれば功績が高かった彼ら外様大名に対して、領地の加増をしなければなりません。徳川に対して忠誠心が強いとは言えない彼らの領地を増やし、力をつけさせてしまうのは、家康にとって大きな危険が伴う行為でした。
ですが、そうしない訳にはいかない状況に陥ってしまった訳で、これ以後、大坂の陣で完全に豊臣方に勝利するまで、徳川家にとって油断のならない状況が続くことになります。勝利したとはいうものの、家康は内心、喜ぶどころではなかったかもしれません。
多分、そういうストレスを息子の秀忠についつい、ぶつけてしまったのでしょう。
実際は当時の状況で、関ヶ原の戦いに間に合うように到着しておけ!というのは、初陣の秀忠に対してほとんど無いものねだりに近い無謀な要求だった訳ですが。
その辺を見抜かれたとみえて、秀忠に軍監としてつけていた古参武将(徳川四天王)の一人榊原康政から、家康はとりなしという名目の諫言を受けてしまいます。
康政は「遅参の件は全て自分の落ち度であり、中納言様(秀忠)に全く過失はない」と言上したといわれ、古くからの家臣にそう強く主張されてしまえば、主君として家康は秀忠を許すか、榊原康政を罰するか2つに1つしかなくなります。
もともと秀忠への怒りが八つ当たりだと家康も自覚していたようで、その諫言は受け容れられ、その後ようやく、伏見城で秀忠は家康との対面を果たすことができました。
最後に-終わってみれば結局誰得?!だった上田城での攻防
という訳で、関ヶ原への遅参は徳川秀忠個人のミスで起こったものではなかったし、これが彼にとって非常に不幸な出来事だったことが皆様にもおわかり頂けたかと思います。
とはいえ確かに、秀忠軍に対峙した真田昌幸・信繁がもしも素直に上田城を明け渡していたら、秀忠の関ヶ原遅参も起こらなかったかもしれません。
兵力に10倍以上もの大差がある徳川軍を翻弄し、足止めしていた真田の軍略は、もうお見事というほかはないですね。
けれども、全てが終わってみれば、西軍が負けたおかげでその勝利はかえって真田親子に災いを招くものになってしまいました。昌幸と信繁の父子は徳川家に敵対したことを理由に、九度山への流罪を言い渡されるのです。
秀忠は14年後もまだ引きずるようなトラウマを抱えてしまった訳ですし、最初に上田討伐を命じた家康は家康で上述したような苦い思いを味わいます。
結果論ではありますが、これってなんだかちょっと虚しい感じがしませんか。結局、誰も得をした人がいないという…。やっぱり人間が生きるためには、世の中が平和な方が良いですよね。