織田信長の旗印! 永楽通宝のデザインを採用したわけとは
鮮やかな黄色地に、黒で染め抜いた『永楽通宝』が縦に3つ。この、目にまぶしいような幟が織田信長率いる軍勢の旗印です。
ひすとりびあをお読みの方ならきっと一度くらいは、映像などで目にしたことがある旗ではないでしょうか。
でも、永楽通宝というお金自体には、皆様あまり馴染みがないですよね?永楽通宝ってどんな通貨で、主にどこで流通していて、いつ頃からいつ頃まで使われていた貨幣なんでしょう?なんとなく戦国時代のお金というイメージだけがある謎の貨幣、永楽通宝。
その真実について、今回は迫ります。
永楽通宝=重商主義者:織田信長が選んだ旗印
織田信長がなぜ永楽通宝を旗印として使っていたのか、それが判る本人の言葉など、その意向がはっきり示されている史料は現在のところ見つかっていません。
ですが、信長という人が同時代の他の大名より流通・経済に関心が深く、楽市楽座などの制度を築いて商業の発展を促したことはよく知られています。
信長の政策は『一所懸命』(※一生懸命の語源。1箇所の土地のために命懸けで戦うという、武士の態度をあらわす言葉)という言葉で示されるような従来型武士の重農主義ではなく、貨幣経済や商業からの利益を重視した重商主義でした。
ですから、この旗印はそうした彼の姿勢を示すシンボルマークだったのではないかと考えられています。
また、織田信長は兵農分離政策を取っていた大名でもあるため、永楽通宝の旗印は兵を志願する者を増やすために、イメージ戦略としても使われていたかもしれません。「織田家に仕えれば銭が手に入るぞ」という訳ですね。
明で鋳造され、室町時代に輸入が始まった貨幣
さて、永楽通宝という貨幣ですが、その歴史は古く、織田信長がこの世に生まれる123年も前の、1411年に鋳造が始まりました。
永楽通宝の”永楽”というのは中国の明で使われていた年号のひとつです。西暦1411年は明の年号で永楽9年にあたり、第3代皇帝の時代でした。
この皇帝のことを日本では永楽通宝にちなんで永楽帝と呼称しています。
この永楽通宝は室町幕府が日本を治めていた頃に日明貿易によって日本にもたらされたもので、銅で作られた貨幣、つまり銅銭と呼ばれる少額貨幣です。
戦国時代の東日本で流通、日本での永楽通宝鋳造も?
織田信長の頃の日本では、商業や物流がその前代よりもかなり発達してきていたものの国産の貨幣が正式には鋳造されていなかったため、永楽通宝は大量に輸入され、流通貨幣として重要な役割を果たします。
特に伊勢・尾張より東では永楽通宝による取引が盛んで、関東では米の量を永楽通宝に換算する『貫高制』が年貢や武士に与える知行の単位として使われていたほどです。
私鋳銭と呼ばれる、永楽通宝の私的な鋳造も行われていたのではないかと唱える学者もいます。江戸時代になって、徳川幕府が独自の通貨鋳造を始めるまで、永楽通宝の流通は長らく続きました。
まとめ
永楽通宝について情報を調べれば調べるほど、感じたことがひとつあります。
それは、織田信長という人は物事のイメージを掴むのがうまくて、PRも上手だったんだろうなということです。
永楽通宝の旗印を見た織田軍の兵士はきっと「この戦で手柄を立てればお金が貰えるから頑張ろう」と思えたんじゃないでしょうか。
織田の軍勢を見かけた民衆に対しても、この旗印なら活気や繁栄のイメージをPRできますよね。
特に、お金でも、大判小判のような普通の人には縁のないものではなくて、人々に馴染みがあって実際によく使われた銅銭を採用しているのがイメージ作りの巧さを示していると思いました。