武田信玄の死因諸説を検証
甲斐の虎と恐れられた武田信玄は、信長討伐の途中吐血し、愛知県の長篠城で療養しましたが病状は悪化、元亀4年(1573)甲斐に帰る道中死去しました。享年53。
その死因に関しては様々な説があるようです。
信玄の死因は一体なんだったのでしょうか。
死因1 狙撃された傷
愛知県新城市の法性寺には「武田信玄が鉄砲で撃たれた場所」というのがあります。
そこに立てられている看板によると、元亀4年(1573)、野田城を武田軍が攻めた際、信玄は毎晩城内からながれてくる見事な笛の音に聞き惚れていました。そこを狙撃され、その傷が原因で死亡したというのです。
狙撃したのは菅沼定盈配下の鳥居半四郎という人物であるとされており、その時に使用されていた鉄砲は宗堅寺に保存されています。
しかしながら、この看板にもはっきりと「伝説」と記されているように、創作であると考えるのが妥当でしょう。
信玄は京から公家を招いた詩歌会や連歌会を行っている文化人であり、そうしたところから「笛の音に聞き惚れていて」などといったおしゃれなエピソードが生まれたのかもしれません。
死因2 結核
結核といえば、幕末期に活躍した新撰組一番隊隊長・沖田総司が患っていたことでも有名です。長州藩で奇兵隊を創設した高杉晋作も結核が原因で死去していて、「不治の病」とされ恐れられた感染症が結核でした。
信玄の侍医・御宿監物の書状に「肺肝に苦しむより、病患忽ち腹心に萌して安ぜざること切なり」とあることや、吐血していたという状況から結核と考えられたようです。
江戸時代の儒学者・山鹿素行の著した『武家事記』でも、信玄の死因を結核として紹介しています。
死因3 胃がん
現在男性の死因のトップは肺がんですが、1993年までは胃がんがトップでした。
『武田三代記』には信玄が「膈(かく)の病」=胃がんであったと記されていることや『甲陽軍鑑』でもその死因を胃がんとしていることから、現在信玄の死因として最も有力視されているようです。
胃がんは早期には無症状ということですが、がんが進行すると吐血や下血などの症状がみられます。
原因は50歳以上の日本人の約8割が保有しているとされるヘリコバクター・ピロリ菌やたばこや塩分の取りすぎ、魚や肉の焦げなどがあるそうです。
「敵に塩を送る」のことわざからわかるように、信玄の支配する甲州(現在の山梨県)は海に面しておらず、塩が豊富ではなかったことから「塩分の取りすぎ」が原因とは考えにくいですが、山からの湧水にはピロリ菌が多いとも聞きますから、ピロリ菌が原因かもしれませんね。
死因4 日本住血吸虫病による体力の低下
日本住血吸虫病は地方病とも呼ばれ、山梨県で原因不明の感染症として長い間恐れられた寄生虫病です。
哺乳類全般の血管内部に寄生感染し、皮膚炎を発症、高熱や消化器症状がみえ、重症化すると肝硬変や黄疸、腹水などを発症し、最終的に死に至ります。
『甲陽軍鑑』には信玄・勝頼の2代に仕えた小幡昌盛が「積聚の脹満」の状態にあったことが記されています。つまり腹部が異常に膨れた状況であることを示していて、典型的な日本住血吸虫病の症状です。
つまり、信玄の時代にもすでにこの病気が存在していたと考えられ、信玄の死因も!?ということでしょうか。
しかしながら、信玄の死の状況には日本住血吸虫病の症状に関する記述も見られませんので、後世の想像であろうと考えられます。
信長による毒殺?
他にも、信長による毒殺説なんていうのもあるようです。
この説は、そもそも信玄の死があまりに信長に都合のいいタイミングであったことがその根底にあります。
信玄は薬好きで知られており、戦場においても朝鮮人参や甘草などの漢方薬を飲んでいたそうです。そのため、信玄に毒を盛るのは簡単であったというのです。
さらに、信玄の側近が信長に寝返っていたこともこの説を補強しています。
暗殺にはヒ素が用いられたのではと考えられているようで、ヒ素がキリスト教神学者・アルベルトゥス・マグヌスという人物が1250年に発見して後ヨーロッパでは暗殺に用いられていたことから、キリスト教を布教したい宣教師たちが信長に天下を取らせるために提供したというところまで説を飛躍させています。
状況証拠だけなら信長が一番に疑われて当然ですが、ちょっと憶測の部分が多すぎるので、真相としては疑問が残ります。
しかしながら、戦でほとんど負け知らずの信玄と勝率7割といわれる信長が直接対決すれば、信長が敗北していた確率は決して低くなく、信玄の死去というのは歴史を揺るがす大事件であったといえるでしょう。
最後に天下を取った徳川家康が長寿だったことを考えても、天下を取るために最も必要な条件は病気にならない健康な体かもしれませんね。