戦国武将で有名な、武田信玄と織田信長。しかしこの2人が戦ったことはありません。
ともに天下取りのために相手を知らないはずはないのですが、意識しながらも戦うことがなかっただけでしょうか?
どういう関係だったのか、謎に迫ります。
信玄と信長
信玄が生きたのは1521年から1573年。
信長が生きたのは1534年から1582年です。
信長の方が少々若いですが、どちらも没した年齢はそんなに変わりませんね。
天下統一まであと一歩というところまで迫った信長と、関東一帯に大領国を築いた信玄。当然のようにお互いを意識し、対立していました。
信長は信玄を恐れていた?
信長は軍師としては天才的だったが、それでも信玄には劣ったということが言われています。
信玄と信長が対決していたら、どうなったのでしょうね?
ルイス・フロイスの『日本記』に、信玄に対する信長についての感想が書かれています。
(武田信玄は)”彼(織田信長)が最も煩わされ、常に恐れていた敵の一人”
他に信長が信玄を恐れていた記録は見当たらなかったのですが、当時の宣教師からしてもそのように感じられたのでしょう。
西上作戦
戦うことはなかった2人ですが、天下を取るためには意識せずにはおられない存在のはずです。
では、どうしたのでしょう?「西上作戦」たるものがありまして、これにより両者は友好的であろうとしていました。
1558年から1570年の永禄年間から、領国を接して外交関係がありました。1565年には東美濃の娘(信長の姪にあたります)を養子とし、その娘を武田勝頼に嫁がせ友好関係を結びます。
この娘は武田信勝を産んだあとに亡くなってしまうのですが、次に織田信忠と武田信玄の娘である松姫の婚約が成立しました。
織田氏の同盟国である三河(徳川氏)と武田氏は対立していたのですが、織田氏と武田氏は友好関係にありました。
お互いの評価
評価といえるものは見当たらなかったのですが、せっかく築いた友好関係は崩れてしまいます。
それというのも、武田氏は将軍である義昭の味方について挙兵、織田氏の同盟国である三河(徳川氏)へ侵攻することになります。この行為によって、両者の友好関係などは反故になりました。
また信長も比叡山焼き討ちなどを行いましたが、この行為に仏教者である信玄は大いに怒りました。
結局のところ、決まった評価はないものの、天下統一のために一度は歩み寄ったけれど、結局袂を分かったことになりますね。それとも「やはり無理だ」と思って決別したのでしょうか?
その後
信玄の没後の1575年、織田・徳川の連合軍と武田勝頼が対立する長篠の戦が起こることになります。
武田勝頼といえば、信長の姪(養女)が嫁いだ相手です。当時はすでに死去していたとはいえ、姪はどんな気持ちでいたのでしょうか。政略結婚によって憂き目を見た人々はかなりいるようです。
余談ですが、武田信玄は徳川家康とは直接戦い(1572年近江三ケ原の戦い)信玄が勝利しています。
この時家康の救援の要請に対し、信長はわずかな兵を差し向けていますが、これは信長が他の戦いで余裕がなかったためです。
信長に余裕があり、全力で戦っていたのであれば…どうなっていたのでしょうね?