真田幸村は本当は物静かな性格だった? 彼を巡る逸話と生涯
真田幸村と言えば、忠義に厚く豪胆、あの家康を震え上がらせた戦国時代最後の猛将として知られています。
しかし、その人生を追ってみると私たちのイメージとは違った真田幸村像が見えてきます。
真田幸村をめぐる逸話を紹介しながら彼の本当の性格を探ってみましょう。
勇猛果敢な幸村像
真田幸村の逸話と言えば大阪夏の陣は外せません。
一番有名なのは真田軍が越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らしたと言う物です。
この時家康は、真田軍のあまりの凄まじさに自害を覚悟した程だったと言われています。
また奥州、伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を真田家伝来の戦法で撃滅し、度重なる負け戦に徳川軍も真田軍への攻撃を自重させた。それを見た真田幸村は「関東武者が百万いても、男子は一人もいないものだな」と嘲笑いながら、悠々と撤収した。
なんとも堂々とした様子ですね。
幸村は優しくて物静かな人物だった?
大阪夏の陣での幸村の活躍を見ると真田幸村は豪胆で堂々としたものすごく強い武将、と言ったイメージが強くなります。
しかし、彼を評して兄信之は
心優しく、物静かで言葉少なく、腹を立てる事も少なかった
と言っています。まるで正反対で驚いてしまいます。
これは彼の前半生による物でしょう。そもそもが、戦術家として知られた父:真田昌幸と優秀な兄:真田信之の影でいまいち目立たない次男坊。二度も人質に出され、戦場に出る時は昌幸と一緒。関ヶ原の戦いが起こった時も昌幸と幸村は西軍、信之は東軍にと、とことんお父さんとセットですね。
結局、関ヶ原では西軍が負け、昌幸も幸村も高野山の麓の九度山に流されてしまいます。
九度山での生活は苦しく、幸村は歯も抜け落ち、髭も白髪交じりになってしまったといいます。
昌幸が亡くなると幸村は出家し、そのままであれば彼の生涯はあまりにも侘びしく、ひっそりと終わっていたでしょう。
大阪夏の陣は幸村の最後の晴れ舞台だった
真田幸村の転機となったのは慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件でした。
大名たちが徳川に味方する中、豊臣家は九度山の幸村の所にも使者を送っています。その時の幸村の心境は定かではありません。ですが、ようやく父ではなく自分自身が自分の進退を決める機会がやってきたのです。
もしかしたら「ここでやらなければ自分の人生になんの意味があっただろう」そんな事を思ったかもしれません。
ちなみに真田家が豊臣についたと聞いた家康の反応は「真田は父か息子か?」という物で、息子の方だと聞くと安心したそうです。家康にとっては怖いのは昌幸で、幸村はおまけ程度だったのでしょう。
家康にとって幸村は取るに足らない存在でした。しかし、大阪冬の陣で築かれた「真田丸」そして真田家に伝えられた見事な戦法の数々。それを目の当たりにして漸く家康は真田幸村という男の恐ろしさに気が付いたのではないでしょうか。
幸村の死後「真田は日本一の兵」と称賛しています。

By: 陳 ポーハン
まとめ
それまで真田昌幸の次男として父の影に霞んでしまっていた幸村にとって、家康との戦いは最大の晴れ舞台でした。いつ死んでも悔いはない、最後に死に花を咲かせたいと願う彼の心が家康をも震え上がらせた戦いぶりに繋がったのでしょう。
大阪夏の陣での勇猛さを称える逸話と彼の人生のギャップからはそんな事が読み取れます。
しかし、真田幸村には豊臣秀頼を連れて薩摩に落ち延びたという伝説もあります。また、後世には幸村の影武者や、真田十勇士など幸村を英雄視したエピソードが沢山生まれています。それだけ幸村の死に様は多くの人を魅了してやまないのでしょうね。