真田幸村が築いた真田丸があった場所は今はどうなっている?
「○○丸」といえば、船の名前に用いられるネーミングです。なぜこのように「丸」を付けるようになったのかということには諸説あり、一説には平安時代に愛用の物を「麿」とよんでいて、それが船にもつけられるようになったともいわれています。
ところで「真田丸」というのが大坂冬の陣で家康を苦しめました。
この「真田丸」というのは船ではありません。この「丸」は、「本丸」、「二の丸」「三の丸」。。。つまり、城の区画=曲輪のことを表しています。
不落の要塞とまでいわれる「真田丸」とは一体どんなものだったのでしょうか。
真田丸とは?
真田丸は真田幸村により、大阪城の東南の角に造られた砦です。
なぜこの場所だったかというと、南方が大阪城唯一の弱点だったからです。
大阪城は北を天満川・大和川、西には上町台地と水掘り、東には平野川の水掘りというように周囲を万全の守りで固めてありました。しかし、南方は平地続きで形ばかりの堀がめぐらされているだけの状態でした。
幸村は当然家康はここを狙ってくると考え、砦を築いたのです。
三日月形のこの砦は、70m以上の奥行きがあり、左右には馬出とよばれる出撃口、正面には水掘り、他三方には空堀をめぐらせ、櫓と塀、さらには三段の柵により固められていました。
上田合戦を再現!?
幸村は真田丸から出て徳川方を挑発、「退屈ならこの真田丸を攻めてみろ」と言ったことが『幸村君伝記』に記されています。
真田丸での戦闘による徳川方の戦死者は冬の陣全体の5分の4を占めたといわれています。
なぜそれほどまでに戦果を挙げることができたのでしょうか。
その理由にはかつて家康を苦しめた「上田合戦」のトラウマがあったといわれています。
上田合戦は天正13年(1585)と慶長5年(1600)の二回にかけて行われた真田氏と徳川氏の戦いです。この戦いで徳川氏は真田氏の6倍、10倍という戦力で臨みながら多くの犠牲を出し、真田軍に敗北しています。
その時の真田軍の戦法というのが、徳川軍を挑発し、近くまで引き寄せたところで鉄砲や矢を放ち、敵が混乱したところで突撃するというものだったのです。
冬の陣でも挑発に乗った徳川方の前田利常隊・松平忠直隊が突撃を開始、待ち構えた幸村軍の銃撃によってみるみる犠牲者を出すことになりました。
島津家久はその様子があまりに不憫で、堀際で動けなくなった兵を殺すことができなかったと語っているほどです。
現在は?
真田丸があった「真田山」と呼ばれる場所には現在、三光神社が鎮座しています。
これはもともと真田丸があった場所に姫山神社というものがあったことが理由です。
境内には幸村の像があり、社殿の下には幸村が掘ったとされる大阪城につながる抜け穴とされる場所がありますが、これは後に造られたものであるといわれているようです。