真田幸村の首の行方 首実検で改められたのは本物だったのか!?
大阪夏の陣で壮絶な戦いを繰り広げた真田幸村。そんな彼が実は生きていたという生存説がまことしやかに囁かれています。
そもそもなぜそのような噂が流れるようになったのでしょうか。
その答えは真田幸村の首実験にありました。
今回は大阪夏の陣の戦後処理として行われた、幸村の首実験を見ていきましょう。
真田幸村の最期
大阪夏の陣での最後の戦い、真田幸村は松平忠直隊15,000の正面を突破し、幾重にも張られた徳川の守りを蹴散らしついには家康の本陣に迫ります。
家康は命からがら逃げ出しますが一時は自害すら覚悟したほどだったというのは有名な話です。
しかし、兵力では勝っていた松平忠直隊が体勢を立て直すと真田勢は壊滅し、幸村は満身創痍で戦場を離脱します。
その後、安居天神(現在の大阪市天王寺区にある神社)で休憩中に松平勢の鉄砲頭西尾宗次に討ち取られてしまいました。
しかし、これには別の逸話もあって西尾宗次はすでに亡くなっていた真田幸村を発見者し、馬を改めてみると幸村と分かったので報告したとも言われています。
叔父に首を見せるも断定出来ず?
首実験はある程度知名度があり、討ち取らなければならなかった人物を確認する為に行います。
武士達の働きを評価する他、憎い大将への侮辱や逆に礼儀や称賛を示すなどの儀式的な意味もありました。
幸村の首も首実験にかけられ、徳川方についていた叔父の真田信尹が確認しました。しかし、面相が変わっている為断言できません。
幸村の額にこのような傷はなかった。そう答える彼に家康は激昂します。
二度も幸村に会っている癖に断言できないのかと。でも、信尹にも言い分があって、彼が幸村に会ったのは夜でしかも信尹は老眼でした。
結局は口の中の欠けていたとされる歯の数や、首がつけていた兜が確かに幸村と一致したので首は確かに幸村と断定されました。
首の行方と生存説
真田幸村を討ち取ったとされる西尾宗次はその後、福井県の孝顕寺に幸村の供養塔を建てました。
敵とはいえ、幸村を討ち取った事で恩賞を受けたのでせめてものお返しというところでしょうか。
幸村の首も彼が預かり、孝顕寺に首塚を作ったとも言われていますが、真田家による奪還を恐れて実は鎧袖だけを埋葬し、首は別の場所に祀ったという別の言い伝えもあります。
しかし、首実験でのエピソードは幸村生存説を生み出しています。同じく生き延びた秀頼を守って鹿児島に逃げた、真田幸村には十人の影武者がいて、殺されたのは影武者であったなど様々な伝説が語られました。
いずれにしても、家康にとっては真田信尹が言葉を濁した事でもやもやとした物が残った事でしょう。
もし、真田幸村が生きていたら……流石の天下人徳川家康も戦場の恐怖を思い出して肝を冷やす事もあったかもしれません。
徳川家康の真田幸村への敬意
首実験に際して徳川家康は西尾宗次に幸村の最期はどのような状況だったかを確かめています。
この時、西尾宗次は何合も打ち合ってやっとの事で幸村を討ち取ったと答えますが、家康はお前のような者に幸村がみすみすと負ける物かと一喝しています。
それだけ家康は真田幸村を恐れ、敬意を払っていたのです。