真田幸村が持っていた刀の名前は何だった!?
大坂夏の陣で真田幸村は奮戦の末家康のいる本陣にまで迫ったといわれています。
家康に自害さえ覚悟させたとまで言われるこの時、幸村が持っていたのは薙刀で、現在もそれといわれるものが福井市立郷土歴史博物館に保管されています。
また、幸村といえば槍術に長けていたといわれ、槍をもった姿で描かれることがほとんどです。
そうした幸村がもった刀とは一体どんなものだったのでしょうか。
「村正」とは?
幸村が所持していたと言われているのが初代「村正」です。
初代村正は「千手観音に祈願して生まれた子」として千子村正(せんじむらまさ)と名乗り、伊勢国桑名で活躍した刀鍛冶です。のち4代まで続き、その刀のほとんどに「村正」と銘が打ってあります。
姿かたちがよく、切れ味も抜群であったことから多くの戦国武将に愛されました。
村正は”妖刀”?
『徳川実記』には
「されもあやしき事もあるものかな。いかにしてこの作(村正)の当家(徳川家)に障ることかな。この後は差料の中に村正あらば皆取捨てよ」
という記述があります。
これは事あるごとに村正が徳川家の人々を斬ってきたからでした。
その始まりは家康の祖父・清康のころにまで遡ります。
天文4年(1535)、守山の陣屋で近習・阿部弥七郎によって清康が殺害されました。その際、弥七郎が使用したのが村正でした。
その後、天文18年(1549)、家臣・岩松八弥によって父・広忠が暗殺されましたが、その時の刀も村正でした。
さらに天正7年(1579)、家康の嫡男・信康が織田信長に切腹させられた際に介錯に使われた刀も村正だったのです。
こうしたことから村正は徳川に仇なす”妖刀”として忌まれることとなりました。
確かに祖父・父・嫡男と家康にとって大切な人が揃って村正に斬られていることは偶然にしてもできすぎているような気がします。
しかしながら逆に考えれば、それほどまでに村正が多くの武将に愛用されていた証ともいえるのではないでしょうか。
家康も愛用していた?
残念ながら幸村所用の村正は残されていないようです。
もしかしたら、先の『徳川実記』の命令で取り捨てられてしまったのかもしれませんが、詳細は不明です。
そうした中で現在見ることができる村正は、実は徳川美術館に収められている家康所用の村正です。
おや?家康は村正を忌み嫌っていたのでは?と疑問ですが、この村正は『駿府御分物御道具帳』にも家康の遺品として記されている由緒正しいものですのですので、表では取り捨てながら、裏では密かに愛好していたと考えられているようです。
つまるところ「忌んでいた」けれど「嫌っていた」わけではないのかもしれませんね。
幸村が村正を持った理由は?
幸村が村正を所持した理由はどこにも記載されてはいないので想像するしかありませんが、私は本陣に乗り込んできた幸村が村正を所持していたことが、家康をより一層恐れさせたのではないかと思います。
もちろん、戦闘の混乱の最中にその刀が村正かどうかを確認できるはずはありませんので、あらかじめ知っていたらということになりますが。
やはり私も村正に斬られるのか。
家康も偶然にしてはできすぎている村正との因縁を意識せずにはいられなかったはずです。本陣に突入してきた幸村を見た家康の脳裏にはそんな思いがよぎったのではないでしょうか。
幸村にとって村正を所持することは、それ自体家康を恐れさせるとともに、家康の命を取るのは自分だという覚悟の表れとなっていたのではないかと思われるのです。