徳川歴代将軍ナンバー1愛妻家! 徳川家治のエピソード
徳川将軍家の中では例外的に愛妻家だったと言われている第10代将軍徳川家治。
その妻である倫子女王とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
そして家治の愛妻家エピソードとは?
徳川家治正妻・倫子女王
1738年、閑院宮家直仁親王の第6王女として京都に誕生した倫子(ともこ)女王。幼名は五十宮(いそのみや)。
1748年、わずか10歳の時に徳川家治との婚姻が決定され、1754年12月に江戸城西の丸に入輿、以降は「御廉中様(御簾中とは将軍の世子または御三家の正室に対しての呼び名)」と呼ばれました。
1760年、夫の家治が将軍を継承すると江戸城本丸に移り、「御台所(将軍や大臣の正室に対する呼び名)」となりました。
子どもは娘が二人生まれましたが、長女・千代姫はわずか2歳で夭折、次女・万寿姫も13歳で夭折しました。
倫子女王も1771年、34歳の若さで亡くなり、江戸上野の春性院にて葬られました。死後3日後には従二位を、さらに1783年には従一位を追贈されました。
家治の愛妻家エピソード
家治・倫子夫妻は、上記の通り2人の姫を授かりましたが早くに亡くしており、男児にも恵まれませんでした。
しかし、徳川将軍の中で正室となった者が(特に夫が将軍となってから)妊娠・出産した人物は限られており、二人も子どもをもうけたこと自体が異例のことであり、ここからも二人の仲のよさが伺えます。
後継者問題のために近臣たちが側室を持つようにと薦めますが中々首を縦にふることはしませんでした。
ですが最終的には、近臣たちの度重なる進言に根負けしたのか、ついに重臣であった田沼意次も側室を持つことを条件に、側室を選ぶことを受け入れました。
そして、津田信成の娘である蓮光院(於知保の方)と藤井兼矩の娘で、倫子女王の付き人として江戸入った養蓮院(俗名・品)を側室としました。
蓮光院は1762年に長男:竹千代(後の徳川家基)を、養蓮院は同年12月に次男:貞次郎(生後4ヶ月で夭折)を産みました。
家治は側室が男児を産むと、お役御免とばかりに側室の下へは通わず、蓮光院が生んだ竹千代は正妻である倫子女王の下で養育させました。

By: Toshihiro Gamo
無用とばかりに大奥の経費を削減
家治の祖父で、家治が尊敬してやまない吉宗は質素倹約につとめ、大奥の経費削減を実施し、50人もの大奥の女性を解雇したことで知られています。
「美女なら後に働き口がすぐ見つかる」という考えのもと美女ばかりを解雇したといいます。その理由として、装飾品に金をかける美女たちを解雇することで倹約にもなるし、当時吉宗の側室になろうと権力闘争や謀略が張り巡らされており、これを嫌ってのことでした。
家治は、そんな倹約家だった祖父以上の倹約に努め、大奥の経費を吉宗の頃よりもさらに3割削減したといいます。
正妻の倫子女王がいればそれでいいという家治の心意気が伝わってくる気がします。
しかし、その反動か、次代の将軍であり、家治の養子となった徳川家斉は大奥に入りびたり、16人の妻妾を持ち、26人の男子と27人の女子をもうけのは皮肉だとしか言いようがありませんね。
家斉についてはこちらをあわせてお読みください。