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赤備えに込めた武将たちの思いとは?

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赤備えとは、戦国時代あらゆる武具を朱塗りにした部隊のことです。

武具を朱塗りにすることにどんな意味があるのでしょうか。

赤備えの始まりは?

赤い甲冑姿で知られるゆるキャラといえば、彦根市のひこにゃんですが、赤備えの始まりは甲斐の武田氏の家臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)の率いた部隊でした。

飯富虎昌は信玄とその父信虎とに仕えた宿老中の宿老で、「甲山の猛虎」と呼ばれるほどの猛将です。そんな彼が率いた騎馬隊は全員が赤い武具に身を包み、「武田の赤備え」として恐れられました。

なぜ赤?

赤備え以外にも、黒や白、青や黄色と様々な色備えがありました。しかしそんな中、赤備えは特別注目して語られてきました。

その大きな理由は、戦場で目立つからです。

目立つということは、敵から見つかりやすい、目につきやすいことを示しています。

その証拠として、幕末の第二次長州征伐で井伊氏率いる彦根藩が赤備えで挑み、格好の的となってしまったというエピソードがあります。そのため彼らはその鎧を脱ぎすてて逃走したとか。

身につけるだけで戦場で狙われる確率が格段に上がる。そんな危険をはらんだ武具が赤備えだったのです。

そのため赤備えは武勇に秀でた武将が率いる精鋭部隊であることが多く、武勇の象徴として語られてきました。

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当初の理由は?

しかし、虎昌が当初赤備えを採用したのは少し事情が違ったようです。

もともと朱色の武具というのは、戦において多くの首を上げた者に主君が与えるものでした。

2012年に映画化もした和田竜の『のぼうの城』でも、正木丹波守利英の朱槍を柴崎和泉守が欲している姿が描かれています。

この「皆朱の槍」も成田家家臣中で武辺の最も優れた者だけが持つことを許されるものとされていました。

戦での活躍如何にかかわらず領地を譲られる嫡男とは違い、次男以下は自ら活躍して領地を獲得するしかありません。

そのために敢えて武具を朱色で統一して目立ち、敵を引きつけようとしたのです。

朱の武具を身につけること自体命懸けのことです。しかし、それだけの覚悟をもって戦に挑むからこそ、彼らの活躍は天下に響きわたることとなったのではないでしょうか。

赤備えは山県昌景から井伊へ

永禄8年(1565)、虎昌が切腹しこの世を去ると、彼の赤備えの騎馬隊は弟の山県昌景に引き継がれました。

その後、武田氏が滅亡すると甲斐は徳川家康の支配するところとなりました。その際、赤備えの騎馬隊をはじめとした武田遺臣は徳川四天王の一人・井伊直政に配属されることとなったのです。

山県昌景のころには「見ただけで勇猛な兵ですら震えあがった」と言われ、井伊直政のころには「井伊の赤鬼」と恐れられた赤備えでしたが、太平の世がくると派手なだけの部隊になり下がってしまっていたようです。

大坂の役の折、家康はピカピカの朱色の武具を身につけた井伊の赤備えを見て嘆いたといわれています。

武田の赤備えを受け継ぐ真田の赤備え

そんな中、大坂の役に赤備えで臨んだ軍団がもう一つありました。それが真田幸村率いる真田軍です。

父・昌幸が武田家に臣従していたことが理由で幼少期を武田家の人質として過ごした幸村は、大坂の役で武田流築城術を用いて真田丸という難攻不落の砦を築きました。

このときの真田の赤備えには幸村の武田家遺臣としての誇りや、心意気を家康に見せつけんとしたものだったのではないでしょうか。

理由は何であれ、真田の赤備えは徳川軍に多大なる被害を与えることとなったのです。

これこそが赤備え。

家康は再び戦国の世を震え上がらせた赤備えを目の当たりにした思いがしたことでしょう。

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