徳川家康を激怒させたという、直江兼続からの一通の手紙。
後世、直江状と呼ばれるそれは家康に会津上杉の討伐を決意させ、関ヶ原の戦いが起こる発端となったとも言われます。
家康をそれほど怒らせたという直江状。その中には何が書かれていたのでしょう?
直江状は家康からの詰問に対する返答だった
その頃、徳川家康は豊臣家大老の筆頭格として、兼続の主君上杉景勝に再三上洛を促していましたが、当時会津にいた景勝にも色々事情があってそれに応じていませんでした。
そんな時に、上杉家が以前領有していた越後の後任領主である堀秀治が、上杉は謀叛を企んでいると徳川家に訴えます。両家の間には越後の引き継ぎに関してトラブルがあったのですね。
そこで家康は直江兼続と親交があった禅宗の高僧:西笑承兌(さいしょうじょうたい)に、兼続に釈明するよう求める手紙を書かせます。「景勝を上洛させなさい」「叛意は無いという誓紙(起請文)を提出させなさい」「上杉に謀叛の噂がある」「上杉家は武器を集めているというではないか」「会津領内に新城を作ったり、道や橋の整備をしているのは謀叛の準備か。あやしい」等々、かなり突っ込んだ厳しい内容です。
直江状はこの承兌への返書として書かれた手紙でした。直接、家康宛に書かれた訳ではなかったのです。でも、家康の詰問にはきちんと答えています。
むしろ、それ答え過ぎじゃない?というくらい、堂々と返答しているんです。
全体の大意を現代語で要約すると
直江状は大変長い手紙なんですが、その大意を(超)要約して現代口語訳にすると、次のようなものになります。
「謀叛か謀叛か、上洛上洛ってうるさいです。景勝にそんなヒマありませんから。てかウチの景勝はそんじょそこらの奴より忠誠心の篤い男なんで。徳川様も讒言を鵜呑みにするとか止めて、ちゃんと相手の方を問い質して下さいよ。(同じ大老格の)前田様だって思い通りに従わせてるんだから、徳川様のご威光なら朝飯前でしょ?何度も誓約書を書いたって、信じてもらえないなら全然意味なくありませんか。とにかく外野にワイワイ騒がせとくのは無しにして、ストレートな話し合い希望。」
こんな感じなのです。(かなりくだけた表現にしてみました)
言いたいことは判りますが、受け取った承兌の気持ちを考えると、思わずこっちも胃が痛くなるような剣幕です。承兌は友達と家康公の間で板挟みになっちゃいますよね。彼はどんな風にこの返書の話を家康にしたのでしょうか。家康がどういうリアクションをするか不安にならなかったでしょうか?それとも禅を究めた高僧として、その辺は達観してたでしょうか。ああ、日記でも残っていたら良かったのに。
直江状の一部原文(とされているもの)
その原文(読み下し文)もここに一部を紹介してみましょう。
一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候 、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ、合点参るべく候事。
これは、
於上方,専取沙汰之事者,(中略)道橋被作候之事而候,
(上方では上杉が道や橋を作って(戦に備えて)いるともっぱらの評判ですよ)
という問いを受けた部分です。
その現代語訳は
前掲の読み下し文を現代語に直してみますと、
道を作ったり、船や橋を整備して交通を便利にするのは、領主として当然です。越後でも船・橋・道は作ってましたよ。それがあっちに残ってますから堀監物(堀直政、堀秀治の家老)だって分かっているはずなんですが。
会津に移ってから急に交通整備に力を入れ始めた訳ではありません。越後はもとの本国なので(内情を良く知っていますから)、久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのにわざわざ道まで作る必要なんかないんです。景勝の領内では会津内は言うに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・政宗領・最上・由利・仙北へも、行き来が便利なように越後方面と同様に道を作りました。周りの他の国の方々はどなたも何も苦情なんかおっしゃっていません。
堀監物だけが道路工事を脅威に思ってグダグダ文句を言ってるんです。よっぽど戦知らずで頭が悪いんだなとお思いになって、相手をなさらない方が良いです。戦支度で道なんか作ったら、それは他国に出陣するのにも使えるでしょうが、景勝だって四方八方から攻められちゃうじゃありませんか。(そんなことも分からないなんて、堀監物は)どうにも手がつけられない大バカ者だと思います。
景勝がどんな風に道路整備を行っているのか、白河口の状況を江戸から直接御使者を遣わして御検分下さればお目にかけます。他に奥州(の伊達や最上)とも御使者が行き来しているようですね。お尋ねはごもっともですので、御不審があればこちらに直々に御使者を下され、国境をそれぞれ納得するまで見ていって下さい。
こんな感じです。「もう本当に頭にきた!」っていう気持ちが文字の端々から感じられますよね。
しかも、やっぱり長い!けれども、理路整然とした説明だとは言えると思います。
本物?贋物?原本不明の直江状、その真偽は
この手紙があまりにも無礼だと怒った徳川家康は、滞在中の京都・伏見から江戸に戻り、兵を集めて会津上杉討伐に向かったということです。
但しこの直江状、直江兼続時代の原本が残っていません。今読まれているのは各地に何通か残っている写しで、一番古いものでも40年後の寛永17年(1640年)のものとされます。そのため『直江状』は後世の贋作(フィクション)だという説も根強くあります。
ただこの時、上杉景勝自身も謀叛説がかなり腹立たしかったとみえ、この後、徳川勢との合戦を覚悟した際に家臣に対し「これが理不尽な滅亡だと思う者は、止めないからどこへでも出ていけ」と伝えています。ですから直江状はやっぱり、開き直った直江兼続が堂々と言いがかりに反論した証拠だという説を取る人も多いのです。命より、武士の名誉を取ったという訳です。
私の個人的な感想としては、その時の西笑承兌の気持ちを考えると複雑ですけど、やっぱり本物だった方が歴史としては面白いと思います。それに、今年の大河ドラマ『真田丸』にもこの直江状、出てきそうな予感がします。この話、どんな風に料理されるのか、今からとても楽しみです。