慶長19年(1614)11月、大坂冬の陣が開戦します。
徳川軍20万と豊臣軍10万の戦いです。
ここでは冬の陣開戦までの流れとその布陣についてまとめます。
開戦までの流れ
7月26日 方広寺の梵鐘の銘を理由に家康が大仏供養延期を決定
冬の陣のきっかけは方広寺の梵鐘に刻まれた8文字の銘でした。
「国家安康」「君臣豊楽」というのがそれで、家康の名前が切り離されているのは呪いの意味がある、それに対し「君臣豊楽」というのは豊臣が離れていないので豊臣の繁栄を願うものであるというわけです。
責任者であった片桐且元は弁明するため銘の考案者である南禅寺の長老・清韓とともに駿府城に向かいましたが面会を断られます。
8月20日 且元、面会を許される
それでも家康に会うことはできず、側近の本多正純と金地院崇伝が代わりに対応しました。
家康は且元に対し、
- 秀頼を駿府と江戸へ参勤させること
- 淀殿を人質として江戸詰めとすること
- 秀頼は大坂城を出て他国に移ること
の3つの条件を提示します。且元は了承しますが、淀殿らが許すはずがありません。
一方、且元がこうした厳しい応対を受けている最中、淀殿は自らの側近で乳母の大蔵卿局ら3人の女性を使者として派遣しました。ところが家康はこちらに対してはすぐに面会し、丁重にもてなしたのです。
9月12日、且元と大蔵卿局ら帰路につく
共に帰ってきた且元と大蔵卿局でしたが、二人の全く違う報告に淀殿は困惑。
淀殿は不利益な報告をした且元を徳川の内通者とみなして追放。当然先に示した3つの条件を受け入れることはありませんでした。
これが家康に対する「宣戦布告」となってしまったのです。
10月2日 秀頼が兵を募る
徳川軍の出陣が決定すると、豊臣側も兵糧や武器を買い入れるとともに、関係の深い大名や浪人たちに使者を送り、兵を募り始めました。
その際に秀吉の残した莫大な金銀がばらまかれたため、たちまち10万の兵が集まることとなりました。
その中には、家康により九度山に蟄居を命じられていた真田幸村をはじめ、長宗我部盛親や後藤又兵衛など武勇を知られる勇将もいました。
11月19日 開戦
最初の戦闘は木津川口の戦いでした。東軍(徳川軍)の蜂須賀至鎮の部隊が、大坂城から海につながる要衝・木津川口にあった西軍(豊臣軍)の砦を落としたのです。
ここから東軍は、大坂城の東北・大和川南岸の鴫野の戦い、北岸の今福の戦い、大坂城の西・博労淵の戦い、西北の野田・福島の戦いとことごとく勝利を重ね、開戦から10日あまりで大坂城に接近することに成功しました。
布陣は?
大坂城に到達した東軍は城を取り囲む形で布陣します。
これに対し、西軍は真田幸村や後藤又兵衛、毛利勝永らの唱える出陣策をとるか、大野治長らの唱える籠城策をとるかで意見が対立していました。
結局、城内で発言力のある治長らの主張する籠城策に決定、西軍の将たちは大坂城内に布陣し、大坂城への出入り口を守ることになります。
そんな中、難攻不落と呼ばれる大坂城の唯一の弱点である南方に幸村は着目しました。
北を天満川・大和川に、西を上町台地の断崖と水掘りで、東を平野川と水掘りで万全の守りで固めている大坂城でしたが、唯一南だけは平地続きで、空堀をしつらえただけでした。
徳川の攻撃はここに集中すると見た幸村は、大坂城の東南角に「真田丸」とよばれる砦を築いたのです。
幸村の予想は見事的中し、南方には徳川軍の多くが布陣しました。
以下、大坂城南に布陣した主な武将と兵数です。
- 徳川家康 3万
- 徳川秀忠 2万
- 前田利常 1万2000
- 伊達正宗 1万
- 松平忠直 1万
- 井伊直孝 4000
- 藤堂高虎 4000
ここに挙げただけでもざっと数えて9万であり、大坂冬の陣に動員された徳川の兵数20万のおよそ半数が大坂城の南に布陣していたことがわかります。
そして幸村は自軍5000という兵数で1万2000の前田利常相手に奮闘し、多大なる損害を与えることとなったのです。