死中に活路を開く!島津義弘を救った捨て奸(がまり)戦法とは?
戦国大名家島津の戦法として有名な、『捨て奸(がまり)』をご存じでしょうか?
戦国時代、九州でよく使われていた戦法に『釣り野伏(のぶ)せ』と呼ばれるものがあります。釣り野伏せは大友氏を下した耳川の戦い、龍造寺隆信を打ち破った沖田畷の戦い、また秀吉の九州征伐中に起こった戸次川の戦いなどで島津に勝利をもたらし、同家が得意とする戦法として当時の武将達の間ではよく知られていました。
でも、捨て奸が使われたのはただ一度のみ。捨て奸と呼ばれているのは、関ヶ原から島津義弘が退却した時に使った戦法だけです。
たった一度の実戦で一躍有名になった捨て奸戦法とは、いったいどんなものだったのでしょう。
別名を座禅陣とも!狙いを定めて敵将を銃撃し、決死の殿軍が踏み止まる
戦で退却の時に最後尾を務める一隊を殿軍(しんがり)と言います。捨て奸はこの殿軍がとる戦法です。
関ヶ原の戦いにに西軍として参戦した島津義弘の軍は、1,500だったとも3,000だったとも言われますが、とにかく5千にも満たない人数でした。
西軍敗北後にその寡兵をもって関ヶ原を脱出し、伊勢街道へと向かう島津の軍は徳川勢に追走されます。そこで、この『捨て奸』戦法が行われたと言われます。
それは、少数の殿軍が踏み留まって物陰で待ち伏せ、銃撃で馬上の将を狙い撃ちしてから刀・槍で立ち向かうというもの。火縄銃を撃つ時に通常の鉄砲隊のように立て膝で構えず、胡坐(胡座=あぐら)の姿勢で待つことから、捨て奸は胡坐陣(胡座陣)、座禅陣とも呼ばれます。立て膝より胡座の方が火縄銃の狙いが定まりやすいんだそうです。実際に追っ手の将のうち、井伊直政と松平忠吉の2名が銃撃を受けて落馬しています。
捨て奸の更に凄いところは、この殿軍が降参せず、自決もせず、最後の1人が討死するまで戦うことでしょう。
敵をできるだけ長い時間足止めするためであり、何としても大将を逃れさせる作戦なのです。全員が討ち果たされた後、追走軍はその先の道筋でまた新たな殿軍の銃撃にあう、という繰り返しの戦法です。
『捨て奸』は架空説もあるが、前進敵中突破での退却劇はやはり凄い戦術
ただ、殿軍の全滅必至を前提としたこの戦法『捨て奸』、現代ではその凄絶さを考慮し、否定する説もあります。
個人的にも希望としては、義弘の帰還方法が『捨て奸』じゃなかった方が良いとは思うのですが。やっぱりちょっと凄絶過ぎますから。けれども、一般には島津義弘はこの戦法を使って薩摩へ帰り着いた、と、長年信じられてきました。
ですが、『捨て奸』が使われても使われていなくても、関ヶ原の合戦のような大きな戦いで正面突破をして敵中脱出を遂げたというのは、やはり凄い戦術だと思います。
それからちょっと蛇足になってしまいますが、この追走劇で3人目の追っ手武将:本多忠勝がかすり傷ひとつ負わなかったのも驚異的です。だって井伊直政と松平忠吉は、この時の傷がもとで後に落命しているんですよ。生涯無傷の勇将本多忠勝、やはりただ者ではありません。
関ヶ原後に減封がなかったのは、義弘が島津の勇猛さを示したからだとも
なお、島津家は関ヶ原後に徳川から一切、減封などの処罰を受けませんでした。
西軍側に義弘の軍がいたのにも係わらずです。それはやはり、この退却で義弘軍の勇猛果敢だった功績が大きいだろうと言われています。
徳川側に、「今、島津を敵に回したらまずい」と思わせたというのですね。もっともな判断だと思います。
もし、鹿児島がもう少し日本の中央寄りに位置していたら、戦国の勢力分布図はどうなっていたでしょう?おそらく歴史が大きく変わっていたのではないでしょうか。