徳川家康も大好きだったわさび 当時は門外不出だったなんて話も!
突然ですが、わさびはお好きですか?
子供の頃はその刺激が嫌いで、寿司は「サビ抜き」が当たり前と思っていましたが、大人になると、わさびがないと物足りないと感じるようになりました。
あの味は、大人の味なのでしょうか。辛いというにはちょっと違う、なんとも表現しがたいあの刺激は、癖になるのかもしれません。
今から400年も前、その味に魅了された人物がひとり、それが徳川家康です。
彼がどのようにわさびに関わっていたのか、見ていきましょう。
徳川家康とわさびの出会い
わさび栽培の発祥の地は、静岡県静岡市有東木(うとうぎ)です。
慶長年間(1596年~1615年)に、渓流に自生していたわさびを、村人が試しに植えてみたところ繁殖し、それを駿府城の家康に献上しました。
それを口にした家康は、そのおいしさに「天下の珍味」と称賛し、加えてわさびの葉が徳川家の葵の御紋に似ていたこともあって(ちなみにわさびは山葵と書きます)、栽培法などを領外に出すことを禁じた門外不出の品に指定したのです。
わさびは門外不出になった!?
家康によって門外不出とされたわさびですが、江戸中期にこの地に椎茸栽培を指導しにやってきた板垣勘四郎(いたがきかんしろう)によって、外に持ち出されることになります。
わさびの味に感動した勘四郎は、村人を説得し、椎茸栽培指導のお礼にわさびの苗をひそかに貰い受けたのだそうです。
勘四郎が自身の居所である天城(あまぎ)にこれを持ち帰り、栽培が始められて以降、わさびは全国に広まっていったのでした。
当然、それと共に人々の口に入ることとなったわけです。門外不出の時期は意外と短かったのですね。
私たちの食卓にわさびが並ぶようになったのは
わさびの存在自体は、7世紀頃からあったらしく、奈良の飛鳥京跡から出土した木簡に、わさびのことが記されています。
室町時代には薬味としての使い方が確立されていましたが、まだ庶民には馴染み薄でした。
やはり、板垣勘四郎によって持ち出されたわさびが広まり、寿司やそばの普及によって、庶民もわさびに親しむようになったようです。
文化・文政年間(1804年~1830年)には、握り寿司にわさびが使われるようになりました。この頃には、わさびは一般的な薬味になっていたと考えられます。
まとめ
わさびには抗菌作用、食欲増進、消化促進効果があります。
健康オタクの家康がこれをもっとよく知っていたら、さぞかし喜んだのではないかなと思います。
最も、さらに厳しい門外不出品とされてしまった可能性もありますが…。
現代の私たちは、板垣勘四郎に感謝しなくてはいけませんね。