子だくさんの天下人 徳川家康の子供は果たして何人いた!?
英雄色を好むとは言ったものですが、当時の大名は、子孫を残すことも立派な仕事でした。
それにしても、家康にはたくさんの子供がいます。しかし、一般的に知られているのは、長男の信康や将軍になった秀忠くらいですよね。
その他の子供たちはどんな人物だったのか、気になります。
そこで、今回は家康の子供たちについてまとめてみます!
実子・養子合わせて何人いる!?
記録に残っている子供としては、家康の実子は16人(男子11人・女子5人)、猶子が1人(男子)、養子が21人(男子3人・女子18人)です。
合計で38人にもなります。
家康の子供(実子 男子11人・女子5人)たちの生涯について
家康の子供たちの生涯についてご紹介します。
松平信康(長男) 1559-1579 母:築山殿(つきやまどの)
1570年には岡崎城主となり、若いながら勇猛で、長篠の戦いで功を挙げました。
しかし、母と共に武田氏への内通が疑われ、切腹させられてしまいます(この理由には様々な説があります)。
結城秀康(二男) 1574-1607 母:小督局(こごうのつぼね)
1584年の小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉の養子となり、羽柴秀康を名乗りました。
九州征伐や小田原攻め、朝鮮征伐に参加しますが、秀吉に実子が生まれると、北関東の結城氏の養子となりました。
徳川秀忠(三男) 1579-1632 母:西郷局(さいごうのつぼね)
家康の後継者として、江戸幕府2代将軍となります。
家康の死後は自身の側近を強化し、鎖国政策や朝廷への強硬策を推し進めました。
松平忠吉(まつだいらただよし・四男) 1580-1607 母:西郷局
井伊直正の娘婿として、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、島津豊久(しまづとよひさ)を討ち取るなど功がありました。
しかし、その時の傷がもとで死去してしまいます。美男子で人望があったと言われています。
武田信吉(たけだのぶよし・五男) 1583-1603 母:下山殿(しもやまどの)
母が武田家臣の穴山氏の養女であった関係から、武田氏を継ぎました。
小田原征伐後いったん松平姓に復帰しますが、常陸水戸藩に封ぜられてからは武田の旧臣と共に武田氏を再興しています。
松平忠輝(まつだいらただてる・六男) 1592-1683 母:茶阿局(ちゃあのつぼね)
1599年、同母弟の松千代の死去に伴い、松平の家督を相続しました。容貌の醜さから父に疎まれたとか、素行が悪かったとかなど伝えがあり、父とは疎遠でした。
兄の秀忠より改易され、流罪が重なった結果、1626年に信濃諏訪へ流され、幽閉されたまま死去しました。伊達政宗の娘と結婚しています。
松平松千代(まつだいらまつちよ・七男) 1594-1599 母:茶阿局
松平忠輝の同母弟で、長沢松平家の松平康直の養子となりましたが、夭逝しました。
平岩仙千代(ひらいわせんちよ・八男) 1595-1600 母:相応院(そうおういん)
長兄・信康の傳役だった平岩親吉(ひらいわちかよし)の養子となりますが、これもまた夭逝しています。
徳川義直(とくがわよしなお・九男) 1601-1650 母:相応院
尾張清州藩主となり、尾張徳川家の始祖となりました。
内政に力を入れ、学問を奨励しました。
徳川頼宣(とくがわよりのぶ・十男) 1602-1671 母:養珠院(ようじゅいん)
水戸、駿府藩を経て紀州藩主となり、紀州徳川家の始祖となりました。
晩年は長老的な存在となり、意見したといいます。覇気ある性格だったそうです。
徳川頼房(とくがわよりふさ・十一男) 1603-1661 母:養珠院
水戸徳川家の始祖です。3代将軍家光に信頼されており、江戸に常住しました。
このことが、水戸藩主が俗に「副将軍」と呼ばれるようになった所以です。
亀姫(長女) 1560-1625 母:築山殿
信康の同母妹で、奥平信昌に嫁ぎました。夫婦仲がよく、信昌は側室を置かず、4男1女をもうけました。
息子が早逝した後は、孫たちの後見役となりました。
督姫(とくひめ・二女) 1565-1615 母:西郡局(にしごおりのつぼね)
北条氏直に嫁ぎ、そこで1男2女をもうけます。
北条氏が滅亡し、氏直が死去した後に池田輝政に嫁ぎました。そこでは5男2女をもうけています。
振姫(ふりひめ・三女) 1580-1617 母:お竹の方
蒲生秀行(がもうひでゆき)に嫁ぎ、2男2女をもうけました。夫が亡くなったため、父の命で浅野長晟(あさのながあきら)と再婚します。
しかし、長晟の二男である光晟(みつあきら)を出産した直後、亡くなってしまいました。
松姫(四女) 生没年不明 母:お梶の方
彼女に関しては、詳細な記録が伝わっていません。
市姫(五女) 1607-1610 母:お梶の方
伊達政宗の息子・忠宗と婚約していましたが、わずか4歳で夭折しています。
猶子(相続が第一目的でなく、官位昇進・婚姻・他氏族との関係強化目的などのために結ぶ親子関係)
八宮良純親王(はちのみやりょうじゅんしんのう) 1604-1669
後陽成天皇の第8皇子です。1615年に家康の猶子となり、1619年に得度しました。
しかし、乱行や周辺との対立、幕府への不満を吐露するなどの行動が問題視され、甲府に幽閉されてしまいました。後に還俗しています。
養子(男子3人・女子18人)
松平家治(まつだいらいえはる) 1579-1592
奥平信昌と家康の長女・亀姫の二男です。わずか14歳で早世してしまいました。
松平忠政(まつだいらただまさ) 1580-1614
奥平信昌と亀姫の三男です。菅沼定利(すがぬまさだとし)の養子となりましたが、後に実父の奥平家を継いでいます。
しかし、病弱であり、35歳で没しました。
松平忠明(まつだいらただあきら) 1583-1644
奥平信昌と亀姫の四男で、奥平松平家の祖です。大坂の陣でも功績があり、家康の命で千歳の復興にも当たりました。
3代将軍家光の後見人となり、宿老としての立場で、幕政の重要人物となりました。
小松姫(こまつひめ) 1573-1620
本多忠勝の長女で、家康の養女となった後、真田信之の正室となりました。
満天姫(まてひめ) 1589?-1638
家康の異父弟・松平康元(まつだいらやすもと)の娘です。
福島正則の息子・正之に嫁いだ後、津軽信枚(つがるのぶひら)と再婚しました。
栄姫(えいひめ) 1585-1635
保科正直(ほしなまさなお)の娘で、家康の姪にあたります。
黒田長政の継室となり、3男2女をもうけました。
阿姫(くまひめ) 1595-1632
松平定勝(まつだいらさだかつ)の娘で、山内忠義(やまうちただよし)に嫁ぎました。2男1女をもうけています。
蓮姫(れんひめ) 1582-1652
松平康直(まつだいらやすなお)の娘で、有馬豊氏(ありまとようじ)に嫁ぎました。
国姫(くにひめ) 1595-1649
本多忠政の長女で、堀忠俊(ほりただとし)に嫁ぎましたが、彼が改易となったため離縁し、有馬直純(ありまなおずみ)と再婚しました。
亀姫 1597-1643
本多忠政の二女で、小笠原忠脩(おがさわらただなが)に嫁ぎます。しかし夫が大坂の陣で戦死したため、夫の同母弟の忠真(ただざね)と再婚しました。
万姫(まんひめ) 1592-1666
小笠原秀政(おがさわらひでまさ)の娘で、蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)に嫁ぎました。日蓮宗の熱心な信徒で、僧・日精(にっせい)の活動を支援していました。
久松院(きゅうしょういん) 生没年不詳
松平康元の娘で、田中忠政に嫁ぎました。夫が早逝したため、松平成重(まつだいらなりしげ)の継室となっています。
浄明院(じょうみょういん) 生没年不詳
久松院と同じく、松平康元の娘です。はじめ中村一忠(なかむらかずただ)に嫁ぎますが夫が早くに亡くなり、毛利秀元の継室となりました。
唐梅院(とうばいいん) ?-1639
松平康親(まつだいらやすちか)の娘で、家康の信頼厚い井伊直政に嫁ぎました。夫の死後は幼い息子を支えました。
菊姫 1588-1661
岡部長盛(おかべながもり)の娘で、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)に嫁ぎ、13人の子をもうけました。
清浄院(せいじょういん) 1582-1656
水野忠重(みずのただしげ)の娘で、加藤清正の継室となりました。夫の死後は息子を助け、徳川家との関係強化に尽力しています。
貞松院(ていしょういん) 1591-1664
保科正直の娘で、小出吉英(こいでよしひで/よしひさ)に嫁ぎました。5男5女をもうけています。
昌泉院(しょうせんいん) ?-1642
牧野康成(まきのやすなり)の娘で、福島正則の継室となりました。二女をもうけますが、夫が改易された後は、娘たちを連れて実家に戻りました。
名前不詳の女性①
松平家清(まつだいらいえきよ)の娘で、浅野長重に嫁ぎました。
名前不詳の女性②
松平康元の娘で、松平(大須賀)忠政に嫁ぎますが、夫は若くして亡くなり、菅沼定芳(すがぬまさだよし)と再婚しました。二女をもうけています。
名前不詳の女性③
松平康元の娘で、岡部長盛の継室となりました。
まとめ
実子・養子ともに本当に大人数ですね…!全部を覚えるのは至難の業のような気がします。しかも、落胤の噂がある人物もまだいるんです。
養女がたくさんいますが、これは、多くの大名との政略結婚の手段として利用していたためです。これによって徳川氏がたくさんの大名と姻戚関係を結ぶことができ、勢力を拡大していくこととなりました。