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加藤清正ここにあり! とにかく目立つ、烏帽子形兜に込められた意味

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加藤清正は、豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳七本槍の一人として武勇を馳せた人物です。

トレードマークとが多いとされる加藤清正ですが、今回はそのトレードマークの一つ、長いながーい兜について紹介していきます。

忠義の人 加藤清正

加藤清正は永禄五年(1562年)刀鍛冶の加藤清忠の息子として尾張国に生を受けました。

母が、豊臣秀吉の生母大政所の従姉妹(または親戚)だったため、その縁で豊臣秀吉に小姓として仕えることになりました。

数々の戦で武勇を上げ、豊臣秀吉の天下取りにのために貢献し、その忠誠心は豊臣家の最期まで褪せることはなかったそうです。

秀吉の亡き後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦での功績により肥後国一国を賜り、治めています。

また、築城の名手でもあり、熊本城や名古屋城天守閣なども清正が手掛けたとされ、現在でもその功績を窺うことができます。

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迫力の烏帽子形兜に蛇の目紋

そんな加藤清正ですが、何と身長が「丈六尺三寸」(約190cm)といわれており、当時にしてはかなり大柄です。

じつは、160cmに満たないほどで、兜を高くして大きく見せていたとの説もあります。

加藤清正所用と言われている兜は、『烏帽子形兜』とよばれ、本妙寺に所蔵され現存しています。

実際にかぶっている様子を想像すると、蛇の目の紋と相まって、その迫力は相当だったはずです。

味方の士気を煽り、敵への威圧を高める。

変わり兜のパフォーマンスは、戦国武将の威厳と威光を表すのに、なくてはならないものだったのです。

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「隈本」から「熊本」へ とにかく大きく強いのが良い

高い烏帽子形兜を愛用していたことや、朝鮮出兵の際のトラ退治の逸話、「帝釈栗毛」と称し六尺三寸もの大きい馬を愛馬としていたことなど、スケールの大きいことを好んだ加藤清正。

拝領先の肥後隈本も、「熊本」の方が勇ましいだろうと、表記を変えさせたのも清正であると言われています。

幕末期に活躍した新撰組の局長近藤勇は、加藤清正に憧れていて、清正が拳を口の中に入れることができるとの逸話を真似して、口に拳を入れていたの話もあります。

大河ドラマの「新撰組!」では、近藤勇役の香取慎吾さんが口に拳を入れている場面がありましたね。試してみましたが、実際やろうと思ってもなかなかできないものでした・・・。

また、こんな名言も残っており、豪胆でありながらも英知に富んだその人柄がうかがえます。

” 表の並木には桜を、裏の並木には栗を ”

(武士というものはいつでも、美しい桜を鑑賞する心の余裕と、いざという時のために食料となる栗などを用意するといった心得が必要である)

加藤清正は、ただ統治するだけの大名たちと違い、肥後の領民たちのために治水事業や農政の改革にも努め、国の発展に力を尽くしました。

現在でも熊本県民から「清正公(せいしょこ)さん」と親しまれ、史跡に訪れる人は後を絶ちません。

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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