天下統一を目前とした豊臣秀吉によって行われた小田原征伐。
日本統一の総仕上げとも言われるこの戦は実はある有力大名への見せしめとして行われたとも言われています。
その大名とは一体誰なのでしょうか。
小田原征伐が行われた理由
豊臣秀吉の小田原征伐のきっかけは北条氏の惣無事令違反でした。
惣無事令とは天正13年(1585年)から天正15年にかけて制定された法令で、大名同士の私闘を禁じた物です。
実は北条氏は真田氏と領土を巡って争っており、秀吉の取りなしで和解を進めていました。その条件として出されたのが北条氏政・氏直親子の上洛であり、この上洛を以て過去の敵対行為を水に流すというのが秀吉の計らいでした。
しかし、北条父子はこの命令になかなか従おうとしません。返事を先延ばしにしているうちに、北条氏の家臣である猪俣範直が真田氏の城である名胡桃城を占拠するという事件が起こります。これが秀吉の逆鱗に触れ、とうとう北条氏への討伐令が全国に通達されて小田原征伐が始まります。
ちょっとやりすぎ!?な秀吉の厳しい処罰
小田原征伐において、最大の悲劇として語られるのが八王子城の悲劇です。
城主:北条氏照が不在だったこの城には老兵や女子供を含む3000人が立て篭っていましたが、ここに上杉、前田、真田から成る15,000人の兵が殲滅戦をしかけたのです。
城内の人々は尽く殺され、城外に晒された妻子の遺体は北条軍の士気を大きく下げました。
その後、北条氏の城は次々と明け渡され、当主の北条氏直が自分の命で一族を助けて欲しいと降伏した為、小田原征伐は終了します。
小田原征伐後、前当主の北条氏政と弟の氏照は開戦の責任を負って切腹を命じられました。当主の氏直は家康の娘婿であった為に死は許されましたが、高野山に追放され北条氏は滅亡します。
このように小田原征伐は容赦のない物でしたが、秀吉はなぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。
これにはいくつか理由があって、一つは関八州を全部くれてやると表向き気前の良い所を見せてやりながら家康を遠ざけたいという物。
そして、もう一つは東北のまだ秀吉に従わない大名への見せしめがあげられます。天下統一をほぼ達成している秀吉がそこまでして恐れた大名とは、そう東北の伊達政宗です。
奥州の覇者伊達政宗
北条父子と同様、伊達政宗も度々送られる秀吉からの上洛の命令を無視していました。
しかも、小田原征伐の前年である天正17年(1589年)政宗は会津の蘆名氏と戦って勝利を収め、南奥州の覇者として一大勢力を誇っていました。もちろんこれはれっきとした惣無事令違反です。
小田原征伐で見せた厳しい姿勢は伊達政宗への忠告と脅しが込められていたと見る事が出来るでしょう。
一説によればもう少し早く北条氏が上洛をしていたら、軍を向けられていたのは伊達氏だったのだろうとも言われています。
北条氏滅亡後、秀吉は宇都宮に入城し、関東、そして東北の大名への処遇を決めました。それを以て秀吉の天下統一はようやく達成されたのです。
まとめ
東北の伊達政宗への見せしめの意味も込められていた小田原征伐。その容赦の無さは恐ろしい物です。
しかし、これ程までに強烈な脅しを突きつけられ、奥州仕置では会津を取り上げられながらも上手く戦国時代を生き抜いた伊達政宗という武将は物凄い人物だったのではないでしょうか。