豊臣秀吉の天下統一!信長死後の流れまとめ
波乱の戦国時代に終止符を打ち、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。本能寺の変で主君:織田信長が討死後、わずか10年足らずで急速に日本中を制圧しました。
明智光秀に勝利した山崎の戦いから北条氏と戦った小田原征伐まで、その流れを時系列で見ていきたいと思います。
1582年:中国大返し!本能寺の変からわずか11日後に明智光秀を破る
天正10年(1582年)6月2日未明。織田信長は本能寺(京都)で明智光秀の謀反にあい、寺に火をかけて自害します。
その時、羽柴(当時)秀吉は信長の命により中国地方:備中高松城(岡山県岡山市)攻略の最中でした。本能寺の変を知ったのは6月3日の夜ごろと言われます。秀吉は素早く敵方毛利と和議を結び、7日余りという驚異的な速さで畿内まで戻ってきました。有名な”中国大返し”ですね。
そして、6月13日には摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の境にある山崎で明智軍と対峙(山崎の戦い。古くは天王山の戦いとも)し、勝利を挙げます。敗れた光秀は本拠である坂本城への敗走途中、落ち武者狩りにあって絶命します。
1583年:賤ヶ岳の戦い - ライバルだった織田家筆頭家老:柴田勝家を撃破
山崎の合戦後、同年6月27日に織田信長ゆかりの地である清洲城に織田家の重臣が集まり、信長の後継者問題と遺領分配に関する会議が開かれました。秀吉はこの清洲会議で主導権を握ることに成功、それまで織田家重臣の筆頭だった柴田勝家は、勢力を大きく後退させます。
会議から8か月後の翌・天正11年(1583年)4月、秀吉は賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)において柴田軍を破り、勝家は本拠地:北ノ庄城に戻って自刃。この勝利によって秀吉は、亡き信長の権力を彼が受け継いだことを各地の大名達に印象づけました。
1583年:神戸信孝(織田信孝)の岐阜城明け渡し、自害
清洲会議で柴田勝家から織田家後継者に推され、三男であることや神戸家に養子に出ていることなどを理由に秀吉に反対された信孝。
彼も勝家と協調して秀吉と対立していましたが、勝家の自害後は敗北を認めざるを得なくなります。1583年4月末、信孝は居城としていた岐阜城を明け渡し、ほどなく切腹させられてしまいます。
1583年:大坂城の築城と、安芸の毛利輝元臣従
同じく天正11年(1583年)に、秀吉はかつての石山本願寺跡に大坂城を築城します。
同じ頃、中国地方の覇者:毛利家当主の輝元が臣従の意を示し、叔父と従兄弟を人質として差し出しました。
1584年:小牧・長久手の戦い起こる - 信長次男:織田信雄の臣従
天正12年(1584年)3月、秀吉の勢力と織田信長の次男:織田信雄と徳川家康連合軍の間に戦が勃発。後に小牧・長久手の戦いと呼ばれたこの合戦は、全国的な規模に発展して長期化します。
しかし、形勢の不利を感じた信雄は、11月半ばに秀吉と単独講和を結んでしまいました。信雄援護を名目に出兵していた家康は、戦局を有利に進めていたにも関わらず出兵の大義名分を失い、12月に秀吉と和睦しました。織田信雄はこれ以後、秀吉に臣従しています。
1585年:四国の梟雄:長宗我部元親を下し、四国平定。元親の臣従
天正13年(1585年)6月、秀吉は弟の秀長を総大将に10万の大軍を派遣、四国で勢力を誇る長宗我部元親を攻略します。7月の末頃、元親は秀長軍に降伏し、上洛して秀吉に臣従することを誓いました。長宗我部家の領地は土佐一国に縮小されています。
また、四国攻めと同時期にあたる7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって関白の位につくことに成功。以後この地位は秀吉が天下を統一する大義名分として利用されることになります。
1586年:上杉景勝の臣従と徳川家康の懐柔に成功。朝廷から豊臣姓を与えられる
天正14年(1586年)6月、諸大名の中でもかなり早い段階、賤ヶ岳の戦いの頃から協力関係にあった越後の上杉景勝が上洛し、秀吉に人質を差し出して臣従を誓います。
またこの年、秀吉は対立していた徳川家康と縁戚関係を結び(妹:朝日姫の入輿)、母:大政所を人質に差し出すなどして懐柔につとめ、10月末、ついに家康も大坂城で秀吉への臣従を表明しました。9月9日には天皇から豊臣の姓を賜ります。天正14年は天下人・豊臣秀吉誕生の年だと言っても良いでしょう。
1587年:大軍を従えての九州遠征と島津義久の臣従
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は前年7月から行っていた九州平定(島津攻め)を本格化させて、弟の秀長と共に20万の大軍を率いて九州に入りました。九州各地で大小様々な戦いが行われましたが、5月初め、九州一の有力大名である薩摩の島津義久が出家の形をとって降伏の意を表明し、以後九州諸大名の動きは鎮静化していきます。
9月に聚楽第が完成し、京都の豊臣家拠点に。また翌1588年には、全国に刀狩令を発布しました。
1590年:小田原攻め - 伊達政宗の参陣と小田原北条家の没落
天正17年(1589年)12月、秀吉は朱印状をもって小田原の北条家へ宣戦を布告。翌天正18年(1590年)に、関東で大規模な戦役が繰り広げられました。5月には北条と同盟関係にあった奥州の伊達政宗も、促されて豊臣方に参陣。奥州の独眼竜と言われた政宗は(死に装束をイメージさせる)白装束を身に着け、わずか200人余の手勢と共に到着します。
彼はこの時、初めて秀吉に服属の意を示したのです。7月の初め、とうとう小田原城も降伏開城。秀吉は北条家当主の氏直を高野山に追放、氏直の父:氏政(先代当主)には切腹の処断を下してこの戦いを終結させました。
その後、関白の権威によって奥州仕置(東北地方の領土裁定)を行い、ついに天下統一を成し遂げるのです。
まとめ
破竹の勢いという言葉がありますが、秀吉の天下統一はまさにそういう感じだなと思います。
8年余という短い年月で、武力・政治・情報収集・根回し、全ての能力と努力をフル回転させて天下を統一したという感じです。すごいの一言に尽きると思いました。