豊臣秀吉の子供まとめ
豊臣秀吉の子供といえば、秀吉の晩年に淀殿と間に出来た豊臣秀頼が有名ですが、他に子供はいなかったのでしょうか。
豊臣秀吉は女好きで有名だった武将ですが、その実態に迫ってみたいと思います。
子供一覧
養子を入れると10人以上いるとされていますが、豊臣秀吉の実子とされている人物は4人といわれています。
まずは男児からみていきましょう。
男児
長男:羽柴秀勝(石松丸)
こちらは豊臣秀吉がまだ、織田信長の家臣で長浜城主だったころに生まれた子供で幼少期は石松丸という名前でした。
母親は南殿と呼ばれていた側室です。しかし、天正4年10月14日に6歳で夭折。
間違えやすいのが後に、同じ名前(秀勝)を織田信長や三好吉房からもらった養子につけていますので、羽柴秀勝と検索をすると、この名前の人物が3人ほど見つかります。
次男:豊臣鶴松
こちらは秀吉が53歳、人間50年と言われた時代ではかなりの高齢のときに生まれた子供で母親は秀頼と同じで淀殿です。
しかし、生来病弱であり、日本中の名医やポルトガルなどから南蛮の医者まで呼ぶなど秀吉も最善を尽くしたものの数え年で3つのときに亡くなりました。
三男:豊臣秀頼
最も有名な子供で秀吉が57歳のときの子になります。秀吉は後継者として育てたいと考えていましたが、秀頼が5歳のときに他界してしまいます。
その後は秀吉が後見役とした徳川家康の横暴ともいえる行動により、石田三成など豊臣政権の奉行と徳川家康の仲が悪くなり、関ヶ原の戦いへ。
石田三成が関ヶ原で敗れ、約220万石あった豊臣家の石高は諸大名に預けていた分を奪われ、約65万石へ転落。
そして、大阪冬の陣を経て、夏の陣で自害。このとき23歳だったそうです。
女児
長女:名前不詳
女児に関しては情報がなく、長男である羽柴秀勝(石松丸)の母親といわれている南殿との間に生まれたといわれています。
しかし、こちらも羽柴秀勝(石松丸)と同様に夭折しています。