柴田勝家と豊臣秀吉は、ともに織田信長の家臣でした。
ですが、2人は信長の死後に賤ヶ岳の戦いを起こし、勝家と妻は自害することになります。
2人の間に何があったのでしょう?
柴田勝家とは
1522年ー1583年にかけて生きたとされています。
彼は豪族の出だと言われ、若いころから織田信秀(信長の父)に仕えました。
信長が家督を継ぐころには、織田家の重鎮となっていたとされます。
1551年に信秀が死去したあとは、信行(信長の弟)に家老として仕えます。
しかし、1566年に稲野の戦い(信行を後継ぎにしようという、信長に対する謀反)に敗れ、以来信長に心を寄せるようになりました。
信行の死後、罪を許され信長の家臣となります。
清州会議
1582年の本能寺の変後、織田家の重臣による話し合いが持たれます。
参加者は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名です。
もう一人の重臣である滝川一益は関東地方へ出陣していたため、欠席となりました。
話しあわれたのは、信長の後継ぎの決定と、信長の領土を配分することでした。
しかし、ここで勝家と秀吉の対立が決定的となります。
勝家は信長の3男である信孝を擁護しますが、秀吉は信長の嫡孫である秀信を擁護します。結局は血筋の正当さから秀信を跡取りとし、信孝は後見人になることとなりました。
領土分配に関しても、秀吉の方が勝家より取り分が多くなります。重臣であったはずの自分と、小姓であったはずの秀吉ですが、いつの間にか立場が逆転していたのです。
それまでにも仲が悪かった?
勝家と秀吉は昔から仲が悪かったのでしょうか?
そうではないと思いたいのですが、両者に対する記録というものがありませんので推論になります。
勝家はもともとが士族の出であり、秀吉は百姓から契機をつかんでのぼりつめました。
信長に仕えていたのは恐らく秀吉の方が長いと思われますが、織田家そのものには勝家の方が長く仕えており、身分も高かった。
最初のころはただ下の方で頑張っていた秀吉を見ていた勝家でしたが、いつの間にか自分と並ぶ…
いえ、それ以上に出世してきました。
あげく、自分より秀吉の方が信長亡き後を仕切っている…
これは勝家には面白くないと思います。
頑張っている部下がいつの間にか偉くなっていた気分なのか、下賤の出だと見下していた秀吉がいつの間にか重用されていたのか…。
どちらでしょうか?
ですが、勝家は人情に厚い人だったようなので(賤ヶ岳の戦い後、先に撤退した前田利家を責めませんでしたし、逆に「秀吉と仲が良いのだから、必ず降るように」と諌めています。
また、落城の際には離反した家臣を恨まず、最後まで付き従った家臣には生き延びることを許しています)部下にいつの間にか抜かれていた…という気でいたのだと思いたいです。
秀吉の方は「羽柴」に改名する時、それぞれ上司である「丹羽」と「柴田」から一字ずつ頂いています。
媚を売っていたのか、尊敬していたのか…微妙ですね。
どちらにせよ、後に「豊臣」と改めるのですが。
落城
賤ヶ岳の戦いで敗北した後、勝家は城で自害します。
辞世の句は
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
というものです。
主君である信長も、対立した秀吉も、ほととぎすに託された俳句を詠まれました。
皮肉なものかもしれません。