豊臣秀頼は秀吉の子ですが、天下を成すことなく大阪の陣で自害します。
秀吉は自分の死後の秀頼の行く末を大層案じ、大名に誓書を再三書かせていたのですが、徳川家康によってそれは破られました。
秀吉が未来を託した秀頼ですが、秀吉の実子ではないとする説があります。
実際どうなのか、謎に迫ります。
豊臣秀頼
1593年ー1615年にかけて生きました。秀吉と淀殿の次男とされます。
秀吉の死後には関ヶ原の合戦が起こり、それによって摂津・河内・和泉の60余万石の一大名として扱われることになります。
1603年に徳川秀忠の娘である千姫と結婚しましたが、1614年、1615年の大阪の陣で徳川軍に攻められ母と自害しました。
因みに大阪の陣の切っ掛けですが、秀頼が建てた寺の鐘に「国家案安」と刻まれていたためだとか。
「家康」の名を切って分けているから謀反の疑いありとされたのです。
家康が因縁つけただけとしか言いようがないのですが、家康は秀頼を危険視していたようです。
秀吉は子どもに恵まれなかった
秀頼の父親が秀吉ではないとする根拠は、秀吉に他に子どもがなかったからですね。
正室にも16人いたとされる側室にも子どもは生まれていません。
長浜城主時代に”石松秀勝”という子どもが生まれ、6歳で亡くなったという説もありますが、他に子どもはありません。
秀吉はかなりの女好きのようでしたが、子どもが生まれないということはそういう体質であったのかもしれません。
淀殿との間に鶴松という息子がいましたが、この子は3歳で亡くなっています。
なぜ、淀殿との間には2人も男子が生まれたのでしょうか?
父親は?
秀頼、鶴松の父親として有力なのは大野治長です。彼は淀殿の乳母の息子でして、つまりは淀殿とは乳兄妹となります。
当時から彼と淀殿が密通しているという噂もあったようですし、随筆「明良洪範」に
「秀吉公ノ子ニアラズ 大野修理ト密通シ拾君(鶴松)ト秀頼ヲ生セ給フト」
と記述されています。
他にも無名法人(陰陽師)、名古屋三郎、石田光成…などの候補がいます。
いずれにせよ、淀殿が秀頼を産んだのは周囲にも”不自然”だったのでしょう。
秀吉自身も不自然だと感じたかもしれませんが、淀殿は信長の血をひいていますから、血筋としては秀頼を認めて世継ぎとすれば、織田の血が天下を治めることになります。
その織田家の血筋からして、他の大名を統治しやすくなると考えたのではないでしょうか。
実際は?
実際に秀頼は誰の子だったのでしょう?それは分かりません。
偶然秀吉の子が生まれたのかも知れませんし、淀殿は何が何でも「秀吉の子」を欲したのかもしれません。
そのため密通してでも子を欲したのではないでしょうか。
淀殿が子を欲したのは、彼女が浅井長政とお市の方の娘であるからではないでしょうか。
お市の方の死因は秀吉であり、つまりは秀吉は淀殿にとっては母の仇となります。
そもそもが、50歳の男に美貌で知られた20歳前後の娘が側室になることも考えにくいのですが。
それでも側室に上がって子を産んだということは、自分の産んだ子が天下を統べることを夢見たのではないでしょうか?
そんな淀殿の野望も、秀吉の天下安泰の夢も、大阪の陣と共に散って行くことになります。
秀頼の死によって、豊臣家は終焉を迎えました。