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豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛 徹底比較!!

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黒田官兵衛と竹中半兵衛は共に豊臣秀吉に使えた優秀な参謀です。「今 孔明」と言われた半兵衛と、徳川秀忠に「今世の張良」と言わしめた官兵衛。この二人は「両兵衛(りょうべえ)」或いは「二兵衛」と並び称されています。しかし、この二人が同時に活躍したのは、数年しかありませんでした。同時代に同じ秀吉に仕えたこの二人の違いについて、略歴、各項目でチェックしてみましょう。

黒田官兵衛 (15461604)

通称を官兵衛、諱は孝高(よしたか)。晩年に出家して黒田 如水(くろだ じょすい)と名乗っています。出身は播磨(現在の兵庫県姫路市)で小寺政職に仕えていました。姫路城を居城としてました。

やがて、毛利輝元と織田信長の二大勢力に挟まれた君主・小寺政職に織田方につくように勧め、秀吉を通して信長に従いました。秀吉の中国攻めに大きく貢献した人物でもあります。

竹中半兵衛 (15441579)

通称を半兵衛、諱は重治(しげはる)出身は美濃(現在の岐阜県揖斐郡)

美濃の斉藤義龍に仕え、義龍の死後は斉藤龍興に使えました。

信長が何度攻め込んでも堅牢な稲葉城と半兵衛の知略によって守られてきました。半兵衛の名前を有名にしたのは、たった16人で稲葉山城を占領したことでした。戦国の世にあって出世欲もなく、官兵衛の息子を匿うなど美談が残っています。

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生命力

半兵衛は華奢な体格で「青ひょうたん」と揶揄されたり、幼少より病弱だった様です。播磨三木攻めの最中に倒れ、京都で療養することになりました。しかし半兵衛は、陣中で最期を迎えたいと療養先から三木の陣営に戻って陣中で病死します。享年36。

官兵衛は、突然毛利に寝返った荒木村重が籠城していた有岡城へ行き、説得を試みました。しかし、村重は官兵衛を牢に幽閉してしまいました。横になることも出来ない場所での幽閉は1年近く続き、救出された時には衰弱し、皮膚病を患い、膝が曲がってしまったといいます。しかし、官兵衛は信長・秀吉・家康の時代を生き抜き59歳で亡くなります。

生命力では官兵衛に軍配が上がります。

風貌

半兵衛は、華奢で「その容貌、婦人の如し」と言われ華奢で美丈夫だったようです。

官兵衛は幽閉で頭は皮膚病になり毛も抜け落ちてしまったといわれています。秀吉から「黒田の瘡頭」といわれました。

容貌では半兵衛に軍配が上がりますね。

官兵衛と半兵衛の逸話

三木攻めの頃、荒木村重が突然謀叛を起こしました。その時、説得に行った官兵衛は幽閉されてしまいました。信長は戻ってこない官兵衛を寝返ったと思い、人質として預けられていた官兵衛の息子・松寿丸(後の黒田長政)を殺す様に命じます。しかし、半兵衛は官兵衛が裏切る筈がないと官兵衛の息子を匿いました。一年後に救出された官兵衛は半兵衛が息子を匿ってくれていたことを知りますが、その時半兵衛はすでに亡くなっていました。

決定的な違い

策略や戦法などに関しては、どちらも引けをとりません。

ではこの二人の決定的な違いはどこにあるのでしょう?

官兵衛は本能寺の変で信長の死を嘆く秀吉に、光秀を討ち天下を取ることを提言しています。また秀吉に「官兵衛に100万石を与えたら生きている間に天下を奪ってしまうだろう」と警戒されていました。

一方半兵衛は稲葉山城を16人で占領した時、信長から「美濃を半分与えるのと引き換えに稲葉山城を明け渡さないか」と言われてもなびかず、半年後には主君に城を返上した後、自らは出奔し後に出家してしまいます。

官兵衛も主筋を裏切るようなことはありませんでしたが、隙あらば天下を狙う官兵衛と、無欲な半兵衛。あなたが主君ならどっちの参謀を選びますか?

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