豊臣秀吉の謎だらけの出自、その真実は?
豊臣秀吉といえば、天下統一を成し遂げた大人物。織田信長に仕え、「さる」と呼ばれていたとか、無類の女好きだったとか、一般的なイメージはそんな感じだと思います。
しかし、秀吉ってどこから出てきたの?と聞かれると、答えに窮するのが事実です。
彼の出自はいったいどうなっているのか…それを追究してみたいと思います。
下級武士説、農民説…そして父は誰?
江戸時代に、土屋知貞(つちやともさだ)がまとめた「太閤素生記(たいこうそせいき/すじょうき)」には、秀吉の父は木下弥右衛門(きのしたやえもん)で、元鉄砲足軽であったとあります。しかし、鉄砲伝来が1543年8月であるのに対し、弥右衛門は1543年1月に亡くなったということになっています。「太閤素生記」は秀吉の前半生について述べた貴重な資料であるとみなされていますが、ここには矛盾が生じてしまっています。
また、一般に広く流布している説としては、弥右衛門の死後に母が竹阿弥(ちくあみ)と再婚したのだというものがあります(秀吉の伝記のひとつ「太閤記」では竹阿弥が実父とされています)。
一方、竹中重門(たけなかしげかど)による「豊鑑(とよかがみ)」には、秀吉は尾張国愛知郡中村郷の下層民の子で、父母の名は不明であると記しています。竹中重門は、秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子であるため、ある程度の信憑性も見込まれます。
下層民説につながる話ですが、歴史家・桑田忠親の「豊臣秀吉研究」では、秀吉が「木下藤吉郎」と名乗ったのは、木下家であるおねと結婚してからだったということで、それまでは名字を持つことすらできない低い階級であったのだと述べられています。
嗜好から垣間見える出自
戦国時代の武士は、男色をたしなむことはごく普通のことでした。むしろ、見目麗しい美少年を側に置くことがステイタスになっていた部分もあります。織田信長や武田信玄など、多くの戦国大名に、男色に関する逸話が残っていますよね。
しかし、秀吉はどうでしょう。これがまったくその手の話がないんです。女性に関する話ならいくらでもあるのですが…。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての儒医・江村専斎(えむらせんさい)の日常談話の記録「老人談話」には、そんな秀吉の嗜好がわかる逸話があります。ちなみに、江村専斎は加藤清正に仕えたこともある人物です。
美少年の小姓が目に留まった秀吉、彼に尋ねます。「お前に姉か妹はおらんのか」と。
やっぱり、女性がいいんですね…。
これは、秀吉が男色をたしなむような階級(=武士)の者ではなく、農民などの出身だったからではないかということになっています。
まさかの御落胤説!?
秀吉の御伽衆(政治・軍事の相談役や話し相手を務める役割)のひとりに、大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいました。秀吉は彼に命じて自身の伝記「天正記」を書かせましたが、その中に出てくるエピソードがオドロキです。
秀吉の母(後の大政所)の父は萩の中納言という高貴な人で、大政所が宮仕えをした後に秀吉が生まれたというのです。宮仕えをしたということはすなわち帝の目に留まることもあるわけで、では秀吉は帝の御落胤では!?ということになるのです。
しかし、これはあまりに突拍子もない話で、事実とは考えられていません。それは、そうですよね…。
結局のところは?
出自はやっぱりはっきりしないのですが、母が竹阿弥と再婚したという説からならば、この後、秀吉は義父と反りが合わずに家を出ます。やがて、駿河国にたどり着き、松下之綱に仕えるようになります。そして松下家を辞した後に、織田信長に召し抱えられました。しかし、どのような経緯で彼が信長のもとにやって来たのか、はっきりとした記録は残されていないのです。
天下まで取った人物の出自がここまで謎というのも謎な話です。けれど、もし一農民から成り上がって天下を取ったならば、これ以上のロマンはありませんよね。
だからこそ、みんないろいろと詮索したくなってしまうんでしょう。でも、そんな私たちを見て、秀吉自身は空の上で大笑いしているのかもしれません。