晩年の豊臣秀吉は正常な判断を失って、様々な失策を行ったと言われています。
その中でも人々の反感を買ったのは関白豊臣秀次の切腹事件とそれに連なる三条河原での処刑でした。
女性や幼児までもが殺され尽くした凄惨な処刑場。秀吉はなぜそんな事を命じたのでしょう。
そして、それはどんな結果に繋がったのでしょうか。
あまりに唐突な謀反事件
豊臣秀次は豊臣氏の2代目の関白です。秀吉の姉の子であり、養子として家督を相続しました。
秀吉の住まいである聚楽第も譲られ、そのままであれば秀次は天下人として恵まれた生涯を終える事ができたでしょう。
ですが、継承が全て終わった段階になって思ってもみない事態が起こります。老齢の秀吉の子を側室の淀殿が懐妊したのです。
秀吉の早まったと思う気持ち、そして秀次の内心の恐怖。
互いにぎくしゃくした物を抱えながらも二人は何事もなかったかのように良好な関係を結びます。
しかし、ついに秀吉が動きました。文禄4年(1595年)6月末、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がります。
鷹狩りと称して山の中でこっそり謀反の相談をしているという噂があったと言われていますが、当時の人々にとってもとうてい信じられるような物ではありませんでした。
秀次は申し開きをしようとしますが許されずに出家させられ、更には切腹を命じられます。享年は28歳。この時彼の妻妾や子供達は丹波亀山城に囚われています。
女性や子供達も容赦なく斬首 観衆からは罵詈雑言
秀次の死後、秀吉は秀次の血筋を根絶やしにしようと目論みます。その為囚われていた妻妾や女官、子供達の合わせて39名が京都に呼び戻されました。
8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われました。刑場には3メートル程の塚を築いて秀次の首が西向きに据えられます。
まずは嫡男を初めとした子供達、次に女性達が次々に斬首されていきました。
亡くなった我が子を抱きしめながら殺される母親の姿や、無造作に投げ捨てられる高貴な遺体にさすがの見物人達も罵詈雑言を浴びせ、見に来た事を後悔した者もいたと言います。
一族の人物を殺し尽くした秀吉は更に聚楽第までも徹底的に破壊し尽くします。
その様子はまるで豊臣秀次という人間の痕跡を全て消し去ろうとするかのようでした。
秀次の切腹事件の影響
何故、秀吉は妻妾や幼い姫君まで容赦なく処刑したのでしょう。57歳にして漸く男子を授かった秀吉はなんとしても実子に家督を譲りたいと思っていました。
ですが、自分はもう老齢で先も長くない、その思いから秀頼の邪魔になりそうな物は自分が何とかなる内に排除しておかなければならないという焦りがあったのでしょう。
しかし、それは裏目に出て、秀頼の周囲には彼を見守り支えてくれる親族が殆どいなくなってしまいました。
しかも、あまりに凄惨な処刑は京の人々にも、秀吉に仕えてきた大名達にも不信感を与え、豊臣家臣団の分断を招きます。
これが後に関ヶ原の戦いの要因となりました。秀頼の為にした事が結局彼の命を縮める事になってしまったのです。
まとめ
三条河原で処刑された女性の一人に最上義光の娘の駒姫という人物がいます。彼女は10歳の時に秀次に見初められますが、流石に幼かった為、4年間成長を待って上洛を迎えました。
しかし、旅の疲れを癒している途中で秀次の切腹事件が起こり、捕らえられた彼女はそのまま処刑されてしまいます。
秀次の顔を見る事すらありませんでした。最愛の姫の理不尽な死に、関ヶ原の戦いでは駒姫の父:最上義光は東軍に付きます。また、同じく東北の伊達政宗も秀次一族の処遇に不満を持ち東軍に付きました。
自分の子供への愛情はどんな父親も一緒。秀次の切腹事件とその後日譚はなんともやるせない気持ちにさせられてしまいます。