旧5000円札の新渡戸稲造 奥様は当時珍しい外国人妻だった!?
旧5000円紙幣の肖像として使われていた新渡戸稲造。
彼は1884年にアメリカに私費留学し、後の奥さんとなる女性と出会っています。
新渡戸はいったいどんな女性と結婚したのでしょうか?
アメリカ人妻メアリーってどんな人?
出生名、Mary・P・Elkinton(メアリー・エルキントン)は1857年8月14日、アメリカ・フィラディルフィアで生まれました。
新渡戸と結婚してからは日本で暮らし、萬里子という日本名をつけています。
そして、結婚の翌年には長男が誕生。
しかし、新渡戸の親友であるトーマス・エジソンの名から遠益(とおます)と名付けられたその子は、わずか1週間で夭折してしまいます。
その後のメアリーは貧しい少年たちのための学校である遠友夜学校を設立、校長に就任します。
また、日本人道会を設立し、動物愛護運動の先駆者となります。
1938年、夫である新渡戸に送れること5年、享年81歳で心臓病により軽井沢で死去しました。
新渡戸稲造とメアリーの出会い
新渡戸は1884年農学研究のためにアメリカに渡りました。
元々キリスト教信徒であった新渡戸はクエーカー派の集会に通い、正式に会員となりました。
その集会で後の妻となるメアリーとの出会いを果たしています。
新渡戸が米国の基地で日本についての演説をした時、聴衆であったメアリーが新渡戸を気に入り、告白したと言います。
1891年に二人は結婚し、翌月には日本の札幌で新生活をはじめました。
結婚の翌年、上記のように長男が生まれてまもなく長男が夭折したせいで夫婦そろって体調を崩し、アメリカのカリフォルニア州に転地療養しました。

By: Guilhem Vellut
新渡戸夫婦の仲
新渡戸とメアリーの結婚は当初お互いの父親から反対されていました。
現在でこそ国際結婚が当たり前のようになってきましたが、この当時はまだまだ人種差別があり、外国人と結婚しても幸せになれないと二人の親は考えたのでしょう。
しかし、新渡戸は自分の父親に50通もの手紙を送り、説得します。メアリーの父親にも熱心に説得を続け、根負けしたメアリーの父親は二人の結婚を認めざるをえませんでした。
それから二人は貧しい少年のための学校を作ることを共通の目標として奔走します。そして、1894年にはついに学校を設立することをかなえました。
敬虔なキリスト教徒であった夫妻。新渡戸の郷里にある内丸教会の牧師はメアリーのことについて「聡明なだけではなく、最後まで新渡戸に寄り添った強い人だったと思う」と回想しています。
「太平洋の架け橋になりたい」という夢に向かって努力を続けてきた新渡戸の功績は、妻・メアリーの縁の下の力持ちがあったからこそかもしれませんね。