徳川家康が初めて日本で鉛筆を使った人物だった!?
江戸幕府初代将軍・徳川家康。
戦国の世を耐え生き抜いてきた彼は日本で初めて鉛筆を使った人物だと言われています。
いったいどのようにして手に入れたのでしょうか。
鉛筆の歴史と日本への伝来
現在のような黒鉛でできた鉛筆が初めて文献に登場するのは、1565年にスイスのコンラート・ゲスナーが書いた『とくに石と岩にふくまれる化石の形とイメージについて』においてです。
16世紀末にはイギリスのボローデールで鉛筆が作られるようになりました。
日本へはどのように伝わったかはっきりとした記録はありません。
しかし、久能山東照宮博物館図録『徳川将軍家の明宝』に、スペイン、あるいはその属領であったメキシコまたはフィリピンから徳川家康に献上されたのではないかと書かれています。
家康に献上されたのが約400年前ですので、イギリスで作られるようになってからすぐに日本に来たことになります。
日本に本格的に輸入されるようになったのは19世紀後半、明治時代です。
1920年までには、それまで毛筆を使用していた小学校に鉛筆が導入されるようになり、一般的に普及し始めました。
新しい物好きな家康
家康は織田信長の様に新しい物好きで南蛮胴や南蛮時計などを持っていました。
また、鉛筆の他にもビードロ薬壺や眼鏡、コンパスなどの舶来品も所持していました。
家康の持っていた鉛筆は、静岡県の久能山東照宮博物館に現存しています。
家康の鉛筆は現存する日本で最も古い物とされており、久能山東照宮(家康が埋葬されている所)で硯箱に入った状態で見つかりました。
鉛筆自体の長さは11.7cmであり、芯は長さ6cm、太さ0.7cm。
また、芯はメキシコ産のものに似ており、柄は赤樫で中米かフィリピン産と言われています。
鉛筆そのものはヨーロッパ製である可能性が高いとされています。
また、浅草にある日本文具資料館にもレプリカですが、家康の鉛筆が展示されています。
伊達政宗も持っていた鉛筆
1974年に政宗の墓所である瑞鳳殿の発掘・再建が行われた際に、副葬品の中から見つかりました。
政宗の鉛筆は先端に黒鉛の芯を詰めるもので、キャップがついていました。
輸入品を愛用した政宗が、部下に命じて自分に使いやすいように作らせた可能性があります。
発掘された鉛筆は発掘後に極端に風化したが、レプリカが作られ、そのレプリカは先述の日本文具資料館の他、仙台市博物館、三菱鉛筆に存在しています。
家康は筆まめだった?
戦国時代や江戸時代には文書の作成や公文書や記録の作成を担当した右筆という秘書的な文官がいました。
武将の多くはこの右筆に文章を書かせて自分は署名や花押と呼ばれるサインをするだけでした。
しかし、家康は近臣や子女に宛てた手紙、自分の誠意を示す誓書、趣味である薬草に関する書類等は自ら筆を執っており、彼が書いたものとされる古文書は数多く現存しています。
その中には鉛筆で書かれたものもあるかもしれませんね。
家康は、当時宣教師によってもたらされたローマ字(アルファベット)の練習を鉛筆でしていたという説もあります。
当時主流だった毛筆では丸い部分が多いローマ字は書きにくいため、鉛筆を輸入したと言われています。