数ある徳川家康の影武者説を徹底検証!
武将とくに戦国の武将には影武者を立てていたとか、本人が亡くなったので影武者が本人に成り代わっていたとかいう話がまことしやかに囁かれています。またそういう小説もあることから、史実と混同されているのかもしれません。
今回は、その影武者説が多いとされる「徳川家康」について掘り下げてみたいと思います。
村岡説
明治35年に村岡素一郎が、「史疑 徳川家康事蹟」という本を出版して、徳川家康は途中から影武者と入れ替わっていたという説を発表しました。
それによれば、「家康が人質となっていた今川家から独立した数年後に不慮の死を遂げていて、その後歴史に登場してくる家康は世良田二郎三郎元信というものが、成り代わった」というものです。
村岡素一郎は、「駿府政事録」の中にある1612年8月19日の記述に「家康が雑談の際に『私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、9歳から18・19歳まで駿府にいたのだ』と語ったという。」とあり、後世の家康は、松平家の嫡男とは違う人物ではないかと言っています。
しかし、この村岡説にはそれを裏付ける同時代の史料が徳川家からも、他家や一般の文書にもないことから、「小説の素材のようなもの」と評されています。
関ヶ原の戦い 死亡説
この説は、隆慶一郎が村岡説に触発された形だが、「家康が入れ替わった時期が早すぎる」として、1600年の関ヶ原の戦いで暗殺されたという設定で「影武者徳川家康」を書いています。
この根拠は、1600年頃から家康の人格が変わったというものです。
こちらも資料等があるわけではなく、史実から発想された小説の素材です。
この説は漫画化やドラマ化もされているので、一番有名な説かもしれません。
大坂夏の陣 死亡説
この説は、大坂夏の陣の時、真田幸村に本陣を攻撃され、駕籠で逃亡中に後藤又兵衛に槍で突かれて重傷を負い、その傷がもとで死亡したというものです。
これには、死亡したとされる南宋寺に「家康の墓」と称されるものがあり、秀忠や家光が上洛の際に南宋寺を訪れて参拝していることからも裏付けられるとされています。
この後、正史でいわれている没年まで、影武者がいたとなる訳です。
まとめ
徳川家康の影武者説は、明治時代に村岡素一郎が唱えたことから始まっているようです。しかし、それを裏付ける資料があるわけではなく、空想や伝承の域を超えていません。
ただ、村岡素一郎が書いた「史疑 徳川家康事蹟」は、初版500部出版されただけで絶版となっています。それは、徳川家一族やその旧家臣から圧力をかけられたからともいわれています。
徳川家にとって都合の悪いことだったのか、ただ単に神として崇められた家康の評判を落としたくなかっただけなのか。
徳川家康の影武者説は、歴史のロマンといったところでしょうか?