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黒田官兵衛と徳川家康の関係は腹の探り合い?

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豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛ですが、関ケ原の戦いでは徳川家康率いいる東軍につきます。

官兵衛はなぜ豊臣方の西軍ではなく、家康率いる東軍で戦う決断をしたのでしょうか。

黒田官兵衛と石田三成

秀吉亡き後、徳川家康が次第に傍若無人の法度破りを示すようになると、秀頼をもりたてて豊臣政権を守ろうとする石田三成などの文治派と幕僚派との軋轢がめだってくるようになりました。

こうした状況の中で、官兵衛と三成の関係がいっきに冷え込む出来事が起こります。五奉行である三成が中心となって行われた秀吉死去後の遺品分けで官兵衛には何一つ与えられなかったのです。広く旗本大名、陪臣に遺品が贈られ、さらに長政に対しても金子20枚が与えられた状況で、秀吉の天下統一の功労者である官兵衛に贈り物なかったことは、三成らが画策したものであると官兵衛は考えたのです。

それ以前から二人の間には確執があり、慶長3年(1598)の朝鮮出兵の際、漢城に陣を置いていた石田三成が軍議のため官兵衛の陣を訪問すると、官兵衛は浅野長政と碁を打っている最中であるという理由で三成を待たせ、これに三成が激怒したという話が残っています。

また、慶長4年(1599)閏3月、前田利家が病に倒れると、それをきっかけに加藤清正ら武断派大名が三成を襲撃、三成を失脚させていますが、これに嫡子・長政も参加しています。

こうした官兵衛と三成の間の確執から、官兵衛が西軍につくことはありえなかったと考えられます。

黒田家、徳川家康と接近

そもそも官兵衛は来るべき天下騒乱の暁には、家康が天下を取るだろうことを予期していました。

そして、嫡子・長政を家康に接近させています。関ヶ原の戦いの3ヶ月前、長政は家康の姪・栄姫を正室に迎えました。長政はもともと蜂須賀正勝の娘・イトを正室として15年間連れ添いましたが、その間にできた女の子を残し離縁してまで、結んだ婚姻関係でした。

この婚姻は家康に接近したい官兵衛と黒田家と接近したい家康との両者の利が合致したことによるものだったとされています。

こうして東軍についた黒田家は、石田三成の本陣・笹尾山を攻めるなどの活躍をみせ、さらには西軍についた小早川秀秋や吉川広家などの諸将を調略し、寝返りの交渉にもあたりました。これらの戦功により、外様大名でありながら家康の信頼を勝ち取り、関ヶ原の戦い一番の功労者として長政は筑前52万3000石を与えられたのです。

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官兵衛は天下を狙った?

家康の勝利に貢献した黒田家でしたが、官兵衛は関ヶ原の戦いの間も虎視眈々と天下を狙っていたと考えられています。

関ケ原の戦いの前年には、病の療養を口実に、家康から暇をもらって居城のある中津に戻り、大阪・備後・周防の三箇所に船を停泊させて、天下の情勢を見極めていました。そして三成が挙兵の意志を固め、諸将に大阪参集を呼びかけると、早々に家康方について出陣することを决めました。このことについて官兵衛は「家康公の進撃を聞いてから出陣したのでは、戦勝の分前にあずかれない」と述べています。

関ヶ原の戦いの6日前の9月9日、官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ます。そして豊後の大友氏、筑後の立花氏らと戦い、11月半ばには一円を平定してしまいました。しかし、関ケ原の戦いは9月15日に開戦すると半日で決着していましたので、官兵衛は肥後・水俣で停戦命令を受けとり、撤退することになります。戦後官兵衛は吉川広家に宛てた手紙で「関ケ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻めこんで、華々しい戦いをするつもりだったのに、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった」と述べ、関ケ原の戦いに乗じて勢力を拡大しようとしたことがわかる記録が残されています。

また、関ヶ原の戦いの後、「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略はしない」と右手を握って家康が感謝していたことを長政が報告すると、官兵衛は「その時お前の左手は何をしていたんだ」と、左手で家康を討つこともできたのにという趣旨の発言をした逸話もあります。

官兵衛を恐れた家康

関ヶ原の戦いの後、長政には筑前を与えた家康でしたが、官兵衛には数々の戦功があったにもかかわらず、何の恩賞の沙汰もありませんでした。家康は「如水(官兵衛の法号)の働きは心の奥で何を考えているかわからないので、長政にだけ恩賞を与えたのだ」と語ったといわれています。

その年の暮れ、官兵衛が家康に謁見したとき、家康は官兵衛の労をねぎらい、上方で希望の地があればそれを与えよう、領地に望みがなければ朝廷に奏して官位を進めよう、と申し出ましたが、「年老いて多病なので、いまさら出仕できない。隠居して余生を送りたい」とこれを辞しました。家康も官兵衛の野望を見抜き、官兵衛もまた自分に対する家康の警戒心を悟っていたのでしょう。こうした官兵衛の一歩引いた身の処置が、黒田家のその後の安泰を保証したと考えられます。

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