関ヶ原の戦い以降、徳川家の勢力は増していきます。
1603年、家康が征夷大将軍となっても、豊臣家やその家臣たちは「家康の次は、秀頼に継がれる」と思っていました。
また家康も、最初は豊臣家を滅亡に追い込むまでは考えていなかったとも言われています。
では、なぜ豊臣家は滅亡しなければならなかったのでしょうか?
豊臣家を滅亡させる必要性は
関ヶ原の戦いの後、戦後処理を済ませた徳川家康は、豊臣家を一大名として存続させており、滅ぼすところまでは考えていませんでした。孫の千姫を嫁がせるなど、豊臣家との共存を模索していたようにもとれます。
着々と徳川政権の基盤を固めていく中で、次第に豊臣家が目障りな存在となっていきました。
そして、1611年に二条城にて豊臣秀頼と会見した際に家康は豊臣家滅亡を決心したとも言われています。
その時、秀頼は成年し立派な若者となっており、教養も備え天下人のオーラに溢れていました。対して、徳川家では1605年に秀忠が征夷大将軍となっていたものの、世には豊臣恩顧の大名も多く盤石な体制とは言い難い状況でした。
そこで家康は自分の寿命を悟り、徳川家にとって後顧の憂いを断つために、豊臣家滅亡を画策していくようになるのです。
大坂の陣直前の政治体制
関ヶ原の戦いの後、家康が征夷大将軍となり、徳川家を中心とした幕藩体制がとられるようになっていきました。
その中で豊臣家は、一大名というより一摂家として幕府からは公家扱いをされています。そのように扱う事で、一気に豊臣家を徳川家に帰順させようとはしていませんでした。
しかし、豊臣家を慕う恩顧の大名や、毎年の正月には秀頼に挨拶をするものが大坂城へ大挙しており、依然として豊臣家の力は衰えていなかったのです。
そこで家康は秀頼との会見後に、まず在京の大名22名に対し幕府の命令に背かないという誓詞を取り、翌年には東北・関東の大名65名にも同じように誓詞をとっています。
このように豊臣家以外の大名には幕府の支配を強めていきましたが、徳川家内部では息子秀忠と六男松平忠輝との仲がわるかったり、孫の家光とその弟の忠長の後継争いがあったりと、家康の気持ちが安らぐ事はなかったのです。
徳川方と豊臣方の国力差
次第に力を強めていく幕府に、豊臣家も危機感を抱くようになっていきました。しかし、家康も豊臣家を潰そうと、寺社の造影や修復を勧め、秀吉が蓄えた金銀を使わせます。その中に、後の大坂の陣の発端となる方広寺の再建も含まれていました。
秀頼はその時65万石の一大名となっていましたが、対して徳川家は400万石を所有していました。数だけをみれば、圧倒的な徳川家ですが、秀頼には秀吉の遺した金銀や年貢だけではない商人からの税金が入ってくるシステムがあり、この財力を元に大坂の陣の武器・兵糧・兵力(浪人)を集めることができたのです。
しかし、たとえ財力に物を言わせたとしても、時代の流れや徳川家の支配力には及ぶことができませんでした。そうして大坂の陣により豊臣家は滅亡していくことになったのです。