徳川家康の家臣として、本多忠勝と本多正信ですが、同じ苗字ということは、親族なのでしょうか?
またそれぞれ徳川家でどんな役割を果たしていたのでしょう?
本多という2人は近親者!?
本多忠勝と本多正信は、同じ本多氏の出身で、家康がまだ徳川ではなく松平と名乗っていた時期から仕えた譜代の一族です。
どうしても、忠勝と正信が有名なために近親者と思ってしまいがちですが、本多一族として仕えていたという事で、他にも多くの本多姓の家臣がいます。
2人の関係としては従兄弟ほど近い親族ではありませんが、この本多一族という事になります。
本家はどちら?
本多一族の中でどちらが本家でどちらが分家かという話ですが、こちらは諸説あり、忠勝の家系が宗家(本流)と言う説もあり、また逆に正信の家系が本家という説もあり、定かではないというのが現状です。
同じ本多一族でも、忠勝ー忠政と忠勝の家計は武勇に優れているのに対し、正信ー正純の方は文官という感じで同じ本多姓でも家柄の違いが伺えます。
家康に重用されたのはどちら?
徳川家の軍神ともいえる忠勝と、一旦は徳川家を出奔し一向一揆に加担し、その後は松永久秀にも仕えたことがある正信。家康はどちらを重用したのでしょうか?
2人の主な働きを見ていきましょう。
忠勝は、徳川四天王と称されるほど武勇に優れた人物で、50数回の合戦に参加して武功を挙げただけではなく、そのいずれでもかすり傷一つ負わなかったと言われています。
そのため、徳川家が戦国時代の厳しい領土・主権争いに勝ち抜いてこれたのは、忠勝の活躍があったからとも言えるのです。しかし、関ヶ原の戦い以降情勢が安定してくると、次第に表舞台から遠ざかってしまいました。
それに比べ正信は、忠勝から「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と言われるほど武勇ではパッとしたところはなく、どちらかというと参謀という存在でした。そのため、関ヶ原の戦い以降、情勢が安定してくると台頭してきて、外交や内政で活躍した人物です。
お互いそれぞれの得意分野で、徳川家を支えた重臣と言えるのではないでしょうか。
ただ、正信は徳川四天王はおろか、徳川十六神将(徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人)にもその名を連ねていないという事からも、功績という面では忠勝>正信という評価なのではないでしょうか。
まとめ
忠勝も正信も同じ時代を生きた徳川の重臣として、歴史に名を残した人物です。ただ活躍した分野は、それぞれ違いました。
同じ本多一族から出た2人は比べられることも多かったのかもしれませんが、家康はどちらも上手く活用する術を知っていたからこそ、最後の最後に戦国の勝者となれたのではないでしょうか。
この2人だけではなく、徳川四天王や徳川十六神将など優れた家臣を多く持った事が、徳川家康が天下を取った最大の理由かもしれませんね。