大坂の陣は豊臣家と徳川家の最終決戦の戦いですが、基盤を固め国を支配していく徳川家に対し、豊臣家に味方する大名は減っていました。
そこで豊臣家は、秀吉が遺した財力に物を言わせ、武器・兵糧・浪人たちを集めることを画策します。
大坂の陣に参加した浪人にはどのような人物がいたのでしょうか?
大坂の陣の際に集まってきたとされる浪人の数
方広寺鐘銘事件の後、豊臣家は戦に備え豊臣恩顧の大名に書状や使者を送り、味方につくよう要請しますが、諸大名から大坂に駆けつけるものはいませんでした。
そこで豊臣方は、秀吉が遺した金銀をばらまき全国各地から浪人衆を集めます。大坂城に集まった兵の数は、12~13万。
浪人と一括りに言っても、真田幸村をはじめとする五人衆やその家臣だったとみなされるような武士は、1万3千人足らずでした。その他は名も無き浪人たちが7~8万人とされています。
また、兵の中には、家康によって禁止されたキリスト教の宣教師やキリスト教徒も入っていたとされています。それから、浪人たちだけでは人数が集まらなかったために、近隣の農民たちにも呼びかけが行われ、頭数をそろえるために金で集められたとされています。
浪人たちの出自
浪人たちの中でも特に有名な五人衆と呼ばれる真田幸村・毛利勝永・長宗我部盛親・後藤基次・明石全登がいます。
この5人を見ていくと、真田幸村・毛利勝永・長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで敗れた西軍の武将で、関ヶ原の戦いの後に改易され浪人となっていました。
後藤基次は黒田家に仕えていたものの黒田官兵衛より家督を相続した黒田長政と折り合いが悪く出奔し浪人となったとされています。
そして、最後に明石全登ですが、彼の場合は少し変わっています。
彼も主家であった宇喜多家が関ヶ原の戦いで西軍につき、敗れたことで改易になったことで、浪人となりました。
ですが、彼の場合、残りの武将と異なり、キリスト教徒だったため、敗れた後に自害をすることも出来ずに身を隠していたとされており、その後家康によってキリスト教が禁教となった為、キリスト教のため?に参戦したのではないかと言われています。
別段、豊臣秀頼がキリスト教を保護するとしていたわけではないのですが、自分の置かれた状況(キリスト教信仰のため)を打開するためには反徳川を掲げたというわけです。これは全登だけではなく、同じように行き場のなくしたキリスト教徒も豊臣側についたとされています。

By: Christopher Eden
全国には浪人がいっぱい!
関ヶ原の戦いによって、改易された西軍大名やその家臣が多く浪人となったり、主家と折り合いが合わず出奔して浪人となるものもこの時期には多くおり、その数は30万人にものぼったと言われています。
その後、有名だった武将などは他の大名へ召抱えられたりもしましたが、それでも相当数の浪人が全国に溢れていたことになります。
大坂の陣は豊臣家を滅亡に追い込むためのが目的だったと言われますが、その浪人たちの一掃も兼ねていたのではないでしょうか?
徳川側からしたら、政権を安定させるために豊臣家と徳川家に恨みを持つ浪人衆と一石二鳥だったのかもしれませんね。