本多正信は徳川家康ではなく、松永久秀に仕えていた!?
本多正信は、徳川家康の腹心として、若い頃から家康に仕えていたのでは?というイメージが強いですが、意外な事に松永久秀に仕えていた時期があるとされています。
その真相について迫っていきます。
松永久秀に仕えたキッカケ
本多正信といえば、徳川家康の重臣として特に家康からの信頼が厚かったと言われています。
そんな本多正信ですが、最初から家康の信任を得ていた訳ではありません。家康の家臣としてはあるまじき(?)行動をとっていました。
時はさかのぼり、1563年西三河を中心に起きた三河一向一揆で、弟である本多正重と共に一揆の方の武将として仕えていた家康に反旗を翻してしまったのです。
その後、徳川側が一揆を鎮圧してしまうと、主な家臣は家康の説得もあって城に戻るのですが、本多正信は出奔してしまいます。
そして、出奔した正信は流浪の身となり、一時期、大和の戦国大名松永久秀に仕えていたとされています。
久秀からの評価
後に家康の参謀的な立ち位置として、徳川家を支えたというだけあり、この頃から非凡な才能があったとされ久秀は重用し、「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と評しされています。
しかし、1565年 永禄の変により三好三人衆が将軍・足利義輝を殺害すると、松永久秀の元を去り、また流浪の身となったとされています。
本多正信の前半生
本多正信は三河に生まれ、始めは徳川家康に鷹匠として仕えます。身分が低かった為に生活は苦しかったようです。
そのためもあり、また信心のために三河一向一揆に加担してしまうのです。一揆が鎮圧された後、徳川家に戻ることなく出奔してしまったのも、信心を捨てきれなかったためでしょうか?
そして、流浪の日々を送り、一時期は先述の通り松永久秀に仕えますが、そこを離れた後も加賀一向一揆に参加し、織田勢と戦っていたとされています。(諸説あり。)
諸国を流浪した正信は、帰参時期は定かとされていませんが、姉川の戦い(1570年)~本能寺の変(1582年)頃に旧知の大久保忠世のとりなしで徳川の家臣として帰参したとされています。
本多正信の前半生とは、信仰のために生きた時期だったのかもしれません。
まとめ
本多正信といえば、徳川家康の側近中の側近として知られています。ただ若かりし頃の正信は、主君に背いてまで信心に生きる熱い一面を持っていたのかもしれません。
しかし、その後家康に仕えるようになって、本願寺で前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していた時、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策します。これによって本願寺の勢力を弱めさせました。正信自ら関わっていた本願寺を弱めさせるとは皮肉なものですね。
正信は若い時に諸国を流浪することによって、いろんなものを見・聞き・経験したことで、人間としての深みが加わったのかもしれません。そういう意味では、その後表舞台へ出るための布石だったのでしょう。