結城秀康は病気で鼻が欠けていた!?
徳川家康の次男・結城秀康(豊臣秀吉の養子)は、34歳の若さで亡くなりました。晩年、病で鼻が欠けたと言われています。
何故、鼻が欠けるという事態になってしまったのでしょうか。
結城秀康とは
結城秀康は徳川家康の次男として生まれながら、3歳まで家康との面会をしてもらなかったと父から疎まれていたと言われている不遇の人物です。
また、家康と秀吉が小牧・長久手の戦いで戦った際には講和条件として、人質として豊臣秀吉の養子になったという経歴があります。
しかし、不遇なのはこれで終わらず、秀吉に子供が出来ると、結城家へまた養子に出されました。
その後の秀康は、関ヶ原の戦いの際に上杉景勝を牽制した功績が認められ、唯一50万石を超える加増をされ、下総結城10万1000石から越前北庄67万石に転封となりました。
ですが、養子に出されたという事も影響したのか家康に疎まれていたためなのか、弟である秀忠が徳川家の後継者となりました。
付け鼻を父 家康に咎められる
慶長12年(1607年)に西国を見張るための伏見城番となっていましたが、体調を崩し領国で静養をすることになります。
領地で病が一時的に癒えた秀康は、父:家康に挨拶に行くことにします。その時に付け鼻を咎められてしまうのです。
家康がやって来た秀康をもてなしていた時のこと。
家康「病で鼻が欠けたと噂で聞いたが、そのようには見えないな。やはり、噂はあてにならん。」と言うと、秀康はうつむいてしまします。
気をきかせた家来が「大御所様、確かに病にて鼻が欠けてしまっておりますが、今はつけ鼻をつけておりますのでそのように見えないのです。」
これを聞いた家康は「病で体が欠損することは仕方がない。しかし、それを隠そうとするのは、公家か町人のすること。武士のすることではない。」と大変怒ったと言われています。
付け鼻を付けた理由
結城秀康の病は、梅毒でした。症状が進み、顔が変形して鼻が欠けたようになってしまったのです。「これではみっともなかろう。」と思った秀康は、家来に命じてつけ鼻をつくらせ、それをつけていました。
そして父・家康に挨拶へ行った時にも、そのつけ鼻をつけていたという訳です。
梅毒という病気
梅毒とは、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマによって発生する感染症で、性病の1つです。
もともと日本にはこのトレポネーマはなかったようなのですが、コロンブスのアメリカ大陸発見以降、ヨーロッパへ持ち込まれその後20年あまりで世界中に広まったとされています。(諸説あり。)
結城秀康がかかった時代にも、性感染症という認識はあったようで、徳川家康は自ら遊女に接することを戒めていたそうです。

By: Devin Lieberman
まとめ
結城秀康は、家康に「つけ鼻をするなど、武士のすることではない。」と咎められましたが、梅毒にかかった人は『鼻欠け』が多かったので、つけ鼻をつけていたようです。もっとも、花柳界の人たちですが。
それに、家康は結城秀康をあまりよく思っていなかったというエピソードもいろいろあります。この「つけ鼻」の件も、秀康だから咎められたのかもしれません。
そういう意味では、本当に不憫なお方ですね。