武田二十四将のうちに数えられている高坂昌信。
彼は、武田信玄にもっとも信頼されていた家臣の1人として知られます。
信玄時代の武田家と、越後の上杉家が何度も合戦をして争っていたのは有名ですが(川中島の戦い)、高坂昌信は、その越後との国境付近にあり守備の要として重要だった北信濃・海津城の城代職を、信玄公から長期にわたり任されていました。
ところで、実はこの主従の強い信頼関係は、若い頃に2人が恋人同士だったために生まれたかもしれないことをご存じでしょうか。なんとその証拠に、信玄が自筆で熱愛を告白した手紙が残っているといいます。
主君から家臣への、ラブレターが現存?戦国時代には衆道(しゅどう、武士同士の同性愛)が普通のことだったと知ってはいても、そう聞いたらやっぱりドッキリしちゃいますよね?これはいったいどういう話なのでしょう。ご一緒にその内容を確認してみましょう。
16歳で近習に取り立てられる
高坂昌信は別名(こちらが本名と言われている)を春日源五郎虎綱と言いました。
彼はもともとの武田家臣ではなく、父:春日大隅は豪農でしたが、数え年16歳の時に甲斐の守護職・武田晴信(後の信玄)に取り立てられ、近習に召し出されます。一説によると高坂昌信の異名「逃げ弾正」は、女性にもて過ぎて逃げ回っていたことからついたとも言われていますので、16歳の時も人目を引く美少年だったのかもしれませんね。
いったいその”手紙”とはどんなもの
その”手紙”と言われているもの、正確には”天文15年(1546年)武田晴信誓詞”と呼ばれ、東京大学の史料編纂所が所蔵しています。
天文15年というと、信玄公こと武田晴信は数えで25歳。高坂昌信は19歳くらいでしょうか。
誓詞というのは、起請文(きしょうもん)とも呼ばれ、書かれた内容について「神仏に誓って嘘偽りなく守る」と誓いを立てる文書です。言ってみれば文字通り「誓いのことば」という訳ですね。
それで、武田晴信はいったい何を誓ったのでしょう?
ひょっとしてズバリ愛の誓いでも書かれているのでしょうか?
手紙の中身は…
気になるその内容はというと、こんな風にあります。
一、弥七郎に頻に度々申し候へども、虫気の由申し候間、了簡なく候。全くわが偽りになく候。
一、弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音申し度きまま、急々走り廻ひ候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。
この条々、偽り候はば、当国一ニ三明神、富士、白山、ことには八幡大菩薩、諏訪上下大明神、罰を蒙るべきものなり。よって件の如し。内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候間、白紙にて。明日重ねてなりとも申すべく候。
「弥七郎にはたびたび言い寄ったけれども、腹痛だからと断られて、何もありませんでした。絶対嘘ではありません。弥七郎に夜伽をさせたことはありません。この前もさせてません。昼も夜も伽をさせたことはありません。今夜なんてとんでもありません。あなたと仲良くしたくて色々手を尽くしているのに、かえって疑われてしまい困っています。」
と書き連ね、それが嘘だったら神仏の罰が下る(=絶対に嘘じゃない!)と続いています。
そして、最後に宛名が「春日源助どの」となっており、つまりこの春日源助こそ、春日源五郎こと高坂昌信であろうと言われてきたという訳です。
武田信玄が源助に恋をしていたのは確かなよう
いかがでしょうか?
弥七郎も源助もどう見ても男性の名前。これが自筆と認められているとすれば、少なくとも信玄が若かった時に男性の恋人がいたのは確実でしょう。
それも、単なる夜のお相手ではなく、源助のことがかなり好きだったようです。でなければ、主君が家臣に対して「絶対に浮気なんかしてない!神かけて誓う!」なんて弁解しませんよね。
ただし本来、誓詞は専用の紙に書く必要があったのですが、これは普通の紙に書かれています。
だから、本物の誓詞としては通用しません。でも、そこがかえってラブレターらしいところだと思いませんか?
恋人に誤解されて困ったあまり、思わず誓約文のようなものまで書いてしまう。若き日の信玄の姿が目に浮かんできそうです。
本当に春日源助=高坂昌信なのかは疑問の余地も
ただ、厳密に言ってこの”誓詞”から、高坂昌信がこの春日源助と同一人物かどうかを確定することはできません。
他に春日源助の名が記された文書も存在せず、この人物の正体は謎なのです。
しかし、いずれにしてもこの源助君。主君にここまで惚れ込まれたことで、後の世に名を残したとは言えそうですよね。