あの池田屋にも斬り込んだ!新撰組二番隊組長「永倉新八」の刀とは
言わずと知れた幕末の最強剣客集団新撰組。
激動の時代に滅びゆく徳川幕府と運命を共にした悲劇のヒーローでもあります。
その中でも、新撰組随一の強さを誇り、幕末から明治を生き抜いた永倉新八という人物がいます。
新撰組二番隊組長としての彼と共に、多くの死線を潜り抜けてきた愛刀とはどのようなものだったのでしょうか。
今回は永倉新八の刀について、見ていきましょう。
永倉新八という漢
天保10年(1839年)、松前藩士の長倉勘次の次男として、江戸に生まれました。
幼い頃より竹刀を握り、弘化3年(1946年)8歳にして神道無念流道場「撃剣館」に入門、18歳で脱藩し剣術修行の旅に出ます。元服し「新八」と改名、脱藩を期に「永倉」と改姓しました。
江戸に帰参後、近藤勇の天然理心流道場「試衛館」の食客となります。
その頃の、試衛館の近藤の元には、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、藤堂平助、原田左之助ら、後の新撰組の幹部となる面々が揃っていました。
そして、将軍の上洛警護のため浪士組として参加、共に上洛をはたします。
近藤勇を局長とし新撰組として活躍するも、あくまでも近藤とは志を共にするものとしての立場と信念を貫きます。
やがて、あくまで幕臣たろうとする近藤と反目するようになり、鳥羽伏見の戦い以降は新撰組を離隊、「靖兵隊」を組織し、会津、米沢と戦場を移動しながら戊辰戦争を戦い続けました。
永倉新八の愛刀とその作者
新撰組の名を天下に知らしめることとなった元治元年(1864年)の池田屋事件をはじめ、油小路の変、鳥羽伏見の戦いなど、常に最前線で戦ってきた永倉新八。
彼の愛刀は「播州住手柄山氏繁」。黒鮫皮に黒綿巻と渋く、二尺四寸の一振りです。
「氏郷」は播磨の国姫路の出身で、白河藩の松平定信に仕え「正繁」と改名しました。
松平定信といえば、徳川幕府の腐敗を断つべく寛政の改革を行った人物です。そんな松平定信に気にいられた氏繁の作風は、身幅が広く武骨な作り、濤乱刃で焼き幅の広いの華やかな刃文が特徴です。
永倉新八の刀のように「播州住手柄山氏繁」の銘が打ってあるものは、四代目正繁作とされています。四代目の正繁が、改名前の氏繁の頃に打ったものということが分かります。
手柄山という名から、縁起が良いと武士に人気があったとされており、永倉新八もそんな縁起にあやかったのでしょうか。
手柄山氏繁の行方
かの池田屋事件では、「帽子」と呼ばれる切先に近い部分が折れたとされ、その戦闘の凄まじさが実証されています。
残念ながら、史料に残るのみで、永倉新八の愛刀「手柄山氏繁」は、現存していません。
しかし、刀工の出身地愛媛県伊予市に、市指定文化財として、永倉新八の愛刀と同じ「手柄山氏繁」作の刀が保存されています。