織田信長が台頭してくる直前、関東・東海を舞台に、大きな同盟が結ばれていたことをご存知でしょうか。
甲=甲斐・武田信玄、相=相模・北条氏康、駿=駿府・今川義元の三氏による、甲相駿(こうそうすん)三国同盟です。
当時、有力大名として着実に勢力を拡大していた三氏は、今川氏の重臣:太源雪斎(たいげんせっさい)のはたらきかけによってこの同盟を結びました。
この同盟とはいったいどんなものだったのでしょう?
三氏それぞれの目論見は、いったい何だったのでしょうか。そこのところ、検証してみる必要がありそうです。
甲相駿三国同盟の目的
当時、関東・東海地方一帯に勢力を誇っていた三氏は、それぞれが異なる敵を抱えていました。
武田信玄は信濃の上杉謙信、北条氏康は関東一帯の扇谷(おうぎがやつ)上杉家・山内上杉家や古河公方、今川義元は尾張の織田信秀という相手がいたのです。
三氏は領地を接していたので、当然背後に回っていることになります。そのため、目下の敵を相手にしているときに後顧の憂いをなくすため、この同盟を結んだというわけです。
なお、この同盟を仕掛けた太原雪斎のセッティングにより、善得寺で三者の会盟が行われたという説がありますが、これは後世の創作であり、史実性は薄いという説が今は有力です。
武田・北条・今川各陣営の目論見
武田の目論見
甲斐統一を成し遂げた武田信玄にとって、次の目的は信濃への侵攻でした。
それに立ちはだかる最大の敵が上杉謙信で、彼らは川中島の戦いで本格的な戦闘に入ります。
信玄としては、背後の心配をなくすのと同時に、北条と今川からの援軍を得ることを期待していました。
北条の目論見
北条氏康は関東の平定に力を注いでいました。そのためには武田に後ろを守ってもらい、なおかつ北に位置する上杉謙信という共通の敵を相手にしなくてはなりません。
また、かつて北条と今川は婚姻による同盟関係を築いていましたが、今川義元が後継者となる際の争いで、今川との関係は悪化していました。
関東の平定という大きな目的を達成するために、武田と今川との関係改善を望んでいた氏康にとっては、この同盟は格好の提案でした。
今川の目論見
今川と北条はかつて同盟関係にありましたが破綻しています。
また、武田とも敵対関係にありましたが、家督を継いだ義元は、三河・遠江と尾張に進出していくにあたり、東西に敵を持つことは不利と考えました。
そのためまず、武田・北条両氏との関係の修復を第一に考えたのです。これによって、長い目で見れば、京都へ上洛する道筋までがついたと考えられます。
三氏による婚姻関係
この同盟により、三氏はそれぞれの子供たちによって政略結婚をし、婚姻関係を結びました。
- 1552年:今川義元・娘(嶺松院)ー武田信玄・子(義信)
- 1553年:武田信玄・娘(黄梅院)ー北条氏康・子(氏政)
- 1554年:北条氏康・娘(早川殿)-今川義元・子(氏真)
しかし、1560年の桶狭間の戦いで義元が死んでからは、徐々にこの同盟は崩壊していきます。
まとめ
太原雪斎は、三国すべての情勢とそれを取り巻く他の国の内情について、深い洞察力を持っていたからこそ、このような同盟の締結を働きかけることができたのでしょう。
彼は軍師であると同時に政治家でもあったわけですね。
長くは保ちませんでしたが、とても大きな出来事だったと思います。