武田信玄といえば、ものすごく強い戦国武将のイメージがありますが、そんな信玄公には苦手なものなど存在しなかったのでしょうか?
実は、武田信玄は芋虫が大の苦手だったというエピソードがあるのです。
どんなお話なのか、ちょっと確かめてみましょう。
『甲子夜話』にみる信玄公と芋虫のエピソード
甲斐武田家の武田晴信(信玄公の出家前の名前)は、幼名で太郎と呼ばれていた子どもの頃から、芋虫(青虫)だけは大の苦手で大嫌いでした。
しかし、晴信は甲斐一円を領土とする戦国大名家の当主。そんなことでは、家臣に示しがつきません。
そう考えたのが、武田軍の誇る4人の武将:武田四天王の筆頭として、武勇の誉れも高い馬場信房(信春ともいう)だったのです。
彼は晴信より7歳上で、おまけに剛勇で鳴らした恐れ知らずの武将。大きな芋虫を三宝に乗せ、主君の前にまかり出ます。
そして「御大将が、こんな虫けらを恐れていらっしゃるとは情けない。手にとってご覧下さいませ」と皮肉な顔をしてその三宝を主の前に。家臣に挑発されて悔しかったのか、晴信は差し出された芋虫をむんずと掴んだのですが、その時、嫌悪感のあまり彼の指先から手のひらまで全てが、芋虫と同じ青緑色になってしまったとか・・・。
こんな話が、『甲子夜話』という随筆集に載せられています。
このエピソードは実は江戸時代に作られたお話!?
これってなんだか、もしも信玄と同じ芋虫嫌いの人が聞いたら、それだけで首から上が全部青緑に染まってしまいそうなくらい強烈な話ですよね。
でも、実はこの『甲子夜話』、江戸時代に肥前平戸藩主:松浦静山という人が書いた随筆集なんです。
信玄公や馬場信房の時代より300年位後に書かれたもので、エピソードの真偽の自体はいまひとつ定かではありません。
ただ言えるのは、その頃、武田信玄が武勇に優れた戦国大名だったことや馬場信房は剛胆な武将だったという知識が、一般に広まっていたらしいという事でしょう。
ところで、そんな強烈な個性のイメージがあった武将、馬場信房とは、いったいどんな人物だったのでしょうか?
初名は教来石景政 信玄公の元で武田家のために活躍
馬場信房は、最初の名前を教来石(きょうらいし)景政といいました。初めは武田晴信の父:信虎に仕えていましたが、次第に信虎と晴信の仲が険悪になり、晴信はいわゆるクーデターのような形で、武田家の当主となります。そしてその時、教来石景政は、主君の息子である晴信側の味方につくのです。
この時、勇猛な武将の彼が味方についたことが、晴信が勝利を得る上で大きなプラスになったのでしょう。
景政は新しい当主に取り立てられ、断絶していた武田家譜代の重臣:馬場氏の家名を継ぐよう命じられました。またその後、引退した猛勇の武将:通称“鬼美濃”原虎胤にあやかるよう、美濃守の名乗りを許されます。
これが、後の世に名を残した武田家四天王筆頭、鬼美濃・馬場信房誕生の経緯です。
立ったまま戦死したという凄まじい伝説もある戦国武者
この馬場信房、その後も武勲は絶えず、三方原の戦いでも徳川家康を追い詰めるなど、大きな武功を立てています。
また、最後の戦まで、生涯体に傷を負うことなく無傷だったとも言われています。徳川家の勇将:本多忠勝も生涯無傷であったと言われていますが、毎日が戦場のような暮らしをしていた武将でありながら、それが真実だったとしたなら、本当に凄い事ですね。
最後の戦いは、信玄公の死後、武田勝頼と織田・徳川連合軍が雌雄を決した長篠の戦いにおける、いわゆる設楽原の決戦でした。
敗走する主君:勝頼が逃げ切ったのを見届けた後、馬場信房は追撃する織田軍を食い止め、立ったまま戦死したとも言われています。
織田信長の伝記である「信長公記」には、「馬場美濃守の働き、比類なし」とあり、敵側からも武将として絶賛された最期でした。