武田信玄の性格は実は慎重で気が回るタイプだった!?
甲斐の虎“または”甲斐の龍”とも呼ばれる武田信玄。
越後の上杉謙信と戦った『川中島の戦い』は有名で、代表的な戦国大名といったイメージがありますよね。
また、信玄公のものと言われる数々の名言・格言も残されており、まさに大物の風格が漂う存在です。
しかし、実際の彼、人間としての彼の性格はどんなものだったのでしょうか?
今回は武田信玄の性格について、色々な角度から検証してみたいと思います。
若い頃は好戦的な野心家? 意欲的に領土を拡張!
1541年(天文10年)21歳の時に武田家の家督を継いだ信玄(当時は武田太郎晴信と名乗る)は当初、ひたすら領土の拡大を目指し、甲斐国から信濃へと侵攻を繰り返していきました。
そして、1553年(天文22年)には、ついに信濃国をほぼ手中にします。
こうした事から考えると、少なくとも若い時には、武田信玄は野心的で精力的な典型的な戦国大名のイメージに当てはまる人だったと言って良いのではないでしょうか。
実は繊細で気を遣う性格だった?
しかし、彼はいつも全てを自信満々に押し進めていくワンマンなタイプではなかったようです。
1546年頃、磯部龍淵斎という家臣に送った手紙には『かれこれ以て一向不如意迷惑に候』(あれこれあって全て思うようにいかず困っています)と、愚痴のような一言が書かれており、その意外にも繊細な一面をうかがわせています。
また、実父:信虎とはそりが合わず、姉の嫁ぎ先である駿河国に体よく追放してしまったのですが、父が身を寄せていた今川家には隠居料(生活費)を送り続け、その生活を保障していました。
合戦では慎重に! 大勝するより負けないように
合戦においては、生涯、慎重な姿勢を崩しませんでした。
信玄公の名言とされるものに『凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す』というものがあり、これは、「合戦で圧倒的な大勝利を収めてしまうと油断して次には負けてしまう、ぎりぎりで勝てば次も頑張る」として、戦いにおいては調子に乗り過ぎないよう自他を戒めた言葉です。
その言葉を実践した成果なのか、生涯で72回戦ったうち負け戦は3度しかなく、49回の勝利をあげ、残りの20回は引き分けに持ち込んでいます。
領民や家臣には名君 法整備なども細やか
その他、武田信玄は領民や家臣に対しても気配りの細やかな名君だったと伝わります。
人を大事にすることの大切さを表した格言『人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』は信玄の言葉として有名ですよね。
実際に、領地内の河川に堤防(信玄堤)を作ってその氾濫を防いだことなど、領民の利益になる大事業を行っています。また信玄家法とも言われる甲斐国内の法律『甲州法度之次第』の制定も有名で、この法律(分国法)は農民の権利保護などが明記されたものでした。
家臣に対しての気配りについて一例をあげれば、1553年小山田備中守昌辰に出した書状の中に『しかる処に振舞の支度、城の払い地などは、さのみ結構いたさるべからず候』とあり、これは合戦の準備のため自分と嫡男の義信が小山田氏の処に赴く際に書いたもので、「自分たち(領主父子)が行くからといって、迎え入れるための支度や城内の整備などには、あまり気を遣わないように」と事前にわざわざ断りを入れたものが残っています。
大名同士の盟約は覆すことが多かった
しかし、その一方で、武田信玄は戦国大名同士で結んだ盟約を破ることが多く、油断のならない人として知られていました。
そのことは特に彼の死後、後を継いだ勝頼を苦しめてしまったようです。父の遺言で越後上杉家を頼ろうとした勝頼は「武田家は盟約を守らないことが多いですが大丈夫なんですか」と皮肉を言われたと伝わります。
長篠の戦いに織田の大軍が参戦したのも、盟約は守るタイプだった織田信長を信玄がかなり手ひどく裏切ったため、信長が武田家を恨んでいたせいかもしれないのです。
けれども、何かあれば武器を取っての戦いに発展してしまう戦国時代。全ての人と良い関係を築ける大名はいないでしょうし、誰からも好かれる人が成功する時代ではなかったでしょう。
大名同士では不義理をしても、領民や家臣には気を遣うというスタンスは武田信玄が、その時代を生き抜く選択肢として、考えに考え抜いた末に選んだものかもしれません。