真田幸村の娘たち 大坂の陣のその後はどうなった!?
大坂の陣で名を馳せた真田幸村ですが、その子供たちは11人いたとされています。
大坂の陣で父・幸村が討死した後、その子供たちはどうなったのでしょうか?
特に娘たちのその後を追ってみたいと思います。
幸村に娘は何人いた?
幸村には正室との間に5人・側室との間に5人、その他に1人の合計11人の子を授かっています。
その内男子は4人、残りの7人が娘ということになります。
7人の娘の内、次女の於市は九度山にて早世しています。
娘たちのプロフィール
では、7人の娘たちのプロフィールと大坂の陣の後を追ってみましょう。
長女・阿菊(すへ?)
生年は不明。母は、堀田興重の娘。幸村の最初の子供で、上田で生まれたとされています。
幸村が九度山へ蟄居させられた時には、伯父の堀田興重(父と同じ名前を名乗っていたようです。代々継承していた名前でしょうか?)に養子として迎えられ育てられたとされています。その後、小県郡長窪宿の郷士・石合十蔵重定に嫁ぎました。1642年没。
次女・於市
生年没年共に不明。母は、高梨内記の娘(異説あり)。上田で生まれ、九度山にて病死とされています。
三女・阿梅
生年は1604年頃。母は、高梨内記の娘(異説あり)。九度山で生まれ、父・幸村が大坂の陣で大坂城へ入った際には、祖父・母と共に随行しています。大坂の陣では、戦場にも出ていたとか。
大坂城が落ちる前に脱出し、伊達家家臣の片倉重長のところへ向かったとされています。片倉重長の白石城で過ごし、片倉重長の正室が亡くなった後、継室となりました。1681年に78歳で没したとされています。
四女・あくり(あぐり)
生年没年共に不明。母は、大谷吉継の娘・竹林院。九度山で生まれました。
大坂の陣の時は、母と隠れていましたが捕まり、京都へ送られました。一時は京都で母と暮らしていましたが、幸村の妹の嫁ぎ先の滝川家の養女となりそこで成長します。
そこから蒲生郷喜へ嫁ぎますが、嫁いだ後滝川家は幕府から幸村の娘を嫁がせたことを咎められ改易されてしまいました(蒲生家の内紛も改易の要因とされています)。しかし、あくりの夫・蒲生郷喜も失脚し浪人となります。その後のあくりの行方はわかっていません。
五女・なほ(御田姫)
生年は1604年。母は、豊臣秀次の娘・隆清院。九度山で生まれました。
大坂の陣の時は、母が祖母(豊臣秀次の母)を頼り京都で過ごしています。その後、出羽亀田藩主・岩城宣隆の側室となり、弟・幸信も連れて行き岩城家の家臣となっています。なほは2男1女をもうけましたが、1635年、32歳の若さで病死しています。
六女・阿昌蒲
生年は不明。母は、大谷吉継の娘・竹林院。九度山で生まれました。
大坂の陣の時は、父・幸村と共に大坂城へ入城しています。大坂城が落ちる時に脱出し、姉・阿梅と共に片倉重長の白石城へ落ち延びました。その後、青木次郎右衛門に嫁ぎますが、後に片倉定広と再婚しています。1664年没。
七女・おかね
生年は不明。母は、大谷吉継の娘・竹林院。九度山で生まれました。大坂の陣の後、姉の阿梅、阿昌蒲と共に片倉重長の白石城で育ちます。その後、石川貞清(宗休)に嫁いだとされています。1657年頃没。
このように、7人の娘たちは波瀾万丈の生涯を送っています。
幸村の父親としての一面
さて幸村は、父親としてはどんな面を持っていたのでしょうか?
どんな人柄だったのかは、書状などから窺い知るしかありませんが、長女・阿菊(すへ?)の夫・石合十蔵重定へ宛てた書状にこうあります。
すへ いろいろとお心にかなわぬことがございましても、どうかお見捨てなきようお頼み申します。
大坂の陣の最中に送ったとされ、自分の先を覚悟して娘の身を案じての内容だと思います。
また、大坂城落城の前に、伊達家家臣の片倉重長へ子供達を託す手紙を書いていたとされます。幸村が子を思う気持ちは、いつの世でも子を持つ親にしてみれば同じですね。