大谷吉継の辞世の句から探る彼の人間像とは
辞世の句には、死を前にしてその人となりがわかるものです。
関ヶ原の戦いで自害した大谷吉継は、それまであまり目立った武将ではありませんでした。
辞世の句を見ながら、大谷吉継の人柄を垣間見てみましょう。
辞世の句とは
辞世とは、もともとこの世に別れを告げることをいいます。なので、辞世の句とは死ぬ直前や死を覚悟した時に詠む漢詩・和歌・発句などのことをいいます。
中世以降、貴族が自分の人生を振り返った和歌などから、この辞世の句の原型の片鱗が見える気がします。しかし、やはり時代劇などで、武士が切腹をする前に詠むというのがポピュラーではないでしょうか?
大谷吉継の最後
さて本題に入る前に、大谷吉継がどんな最後だったのか簡単にまとめてみましょう。
もともと吉継は、母が豊臣秀吉の正室・高台院の侍女の東殿との説もあるように、秀吉に仕えました。
秀吉の存命中は、あまり表舞台に出てくる事はなかったのですが、数々の戦場で武功をたてたり、算術を得意としたため石田三成と共に戦の兵糧・武器・馬などの手配をこなしていたため、秀吉に重用されていました。
そして、秀吉亡き後は、徳川家康と懇意にしていました。それで家康が上杉討伐軍を起こした際に、自ら軍を率いて討伐軍に参加します。その途中に、親友の石田三成の居城・佐和山城へ立ち寄り、三成の息子を討伐軍に加えようとしたのですが、そこで三成から家康を討とう持ちかけられてしまうのです。
吉継は、再三三成を説得しようと試みますが叶わず、敗戦を覚悟した上で三成に加勢することを選ぶのです。
その後の関ヶ原の戦いで、西軍にいた小早川秀秋の裏切りを見抜いた上で小早川軍を牽制しつつ、東軍を苦しめる戦いをしますが、やはり裏切った小早川秀秋と他の西軍にも裏切られ、四方から攻められた大谷軍は壊滅し、吉継は自害を選ぶことになったのです。
平塚為広の辞世の句とセット!?
平塚為広も秀吉の家来として仕えていて、戦の時など吉継の下で働いていたとされています。2人の間柄は主従関係とも言えますが、とても親密な間柄だったようです。そして吉継と共に三成の挙兵を諌めていました。
そのため、関ヶ原の戦いでも為広は大谷軍の前備えを率いていましたが、西軍の裏切りにより状況が厳しくなると、敵兵の首と共に吉継へ辞世の句を送ったとされています。
2人の辞世の句を見ていきましょう。
吉継の辞世の句は、以下の通りです。
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
これは、関ヶ原の戦いで吉継と共に行動していた平塚為広の辞世の句への返句といわれています。
名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば

By: karinckarinc
辞世の句の意味
為広の「永遠に生きられる訳ではないのだから、君の為に捨てる命は惜しいはずがない。」
これに対して吉継は、「約束通り来世の入り口でしばらく待っていてくれ、遅れて、または先に死ぬことがあっても。」と返句を詠んで自害したとされています。
お互いに西軍の敗戦を覚悟の上で参戦したので、あの世での再会を約束していたのでしょうね。