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最後は真田幸村と大阪の役で奮戦した後藤又兵衛

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黒田二十四騎、さらには黒田八虎に数えられる後藤又兵衛は、一方で真田幸村らと共に秀頼四天王の一人にも数えられています。

後藤又兵衛とはどのような人物だったのでしょうか。

黒田家家臣となる

又兵衛は通称で、本名は基次といいます。永禄元年(1558)三木城主・別所長治の家臣、後藤基国の次男として生まれました。

その後、長治が織田信長と対立すると、後藤家は信長に降伏し、以後、御着城主・小寺政職に仕えました。又兵衛8歳の頃に父が病死すると、父の友人であった官兵衛に引き取られ養育されました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城に幽閉された際に、主君・小寺政職と共に、叔父とその子、母方の伯父らが村重方に属したため、又兵衛もこの謀反に連座したとみなされてしまい、黒田家を去ることになってしまいます。

その後、豊臣秀吉の家臣である仙石秀久に仕えましたが、秀久が九州征伐において島津家久に大敗し、さらにあろうことか諸侯を差し置いて領国・讃岐に逃げ帰るという醜態をみせます。これにより、官兵衛の子・長政が又兵衛の帰還を許し、黒田家家臣・栗山善助(利安)の与力として100石が与えられました。

黒田家出奔、浪人へ

豊前一揆・朝鮮出兵・関ケ原の戦いなどで、武功を挙げた又兵衛は黒田家の有力な先鋒武将の一人となります。

しかし、官兵衛の死後、主君・黒田長政との不仲が原因で、慶長11年(1606)に黒田家を密かに出奔してしまいます。隣国の細川忠興が5000石の客分として召し抱えようとしましたが、長政がこれに抗議し失敗、その後も福島正則らが又兵衛を召し出そうとしましたが、長政がこれに干渉、又兵衛は京都で浪人生活を送ることになりました。

長政との不仲の原因については諸説あり、

  1. 城井谷崩れの敗戦を詫びるため、長政をはじめ諸武将が頭を丸めたが、又兵衛だけは「戦に勝負はつきもの。負け戦のたびに頭を丸めていたら、一生髪が生え揃わない」として従わなかった。これにより、長政の面目がつぶれた。
  2. 文禄の役で朝鮮軍の敵将との一騎討ちに加勢せず、「敵に討たれるようなら我が殿ではない」とそれを見物していた。これを長政は深く恨みに思っていた。
  3. 武家社会に顔が広く知られていたため、長政と犬猿の仲にあった細川忠興との内通をうたがわれた。

など多く伝えられており、小さな不満が積もり積もってのことだったのかもしれないと想像されます。

一方で、細川家にいた頃長政について聞かれた又兵衛は、「黒田長政という人は生まれつき転性剛強な性格で、どんな合戦でも物脇の二、三人目にいて諸士と先を争う将なので、この先陣争いの連中を討ちなされば、簡単に長政を討つことができるでしょう」と答えという話があります。これに対して細川忠興らは「又兵衛は長政に不満があって黒田家を立ち退いたというのに、古主を悪く言うように見えて、実は古主の武威を語っていた。忠義の厚い、見事な侍である」と大いに讃え評したというので、見くびっていたというわけでもなさそうです。

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大阪冬の陣・夏の陣

徳川家康の大阪城攻めが現実味を帯びると、豊臣秀頼の家臣・大野治長の招きを受け、大阪城に入城します。これに対し、家康は播磨国をやるので味方するようにと打診しましたがこれを辞し、負け戦と知りながら家康や古主・長政と戦う道を選びました。一説には、子の左衛門が誘拐された際に、秀頼が救出してくれたことに感謝し、大阪方に付いたといわれています。

又兵衛を含め、真田幸村、長宗我部盛親などが軍団長に選出され、譜代とともに政策決定にも携わっていたようです。彼らのような新参籠城衆が重用された背景には、加藤清正・池田輝政など豊臣恩顧の大名がすでになくなっていたことや、勧誘した諸大名が招聘に応じてくれなかったことがあると考えられます。

旗頭として天満の浦で閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称された話が残されています。摩利支天というのは、陽炎の化身ゆえにその体を傷つけることはできないとして、武士に信仰されていた仏教の守護神の一人です。楠木正成や毛利元就、前田利家などの武将が信仰していたと伝えられています。譜代から歓迎されていたかは疑問が残りますが、真田幸村ら新参者からすれば、頼もしい存在として写っていたのかもしれません。

又兵衛は城内混乱の中、奮戦します。近侍した長沢九郎兵衛が又兵衛の背中を流した際、その体には53ヶ所もの傷があったといわれています。

しかし、元和元年(1615)道明寺・誉田の戦いで敵陣に突撃し、伊達正宗勢の鉄砲隊にその巨体を撃ち抜かれて落馬、吉村武右衛門に介錯させ、壮絶な最期を遂げました。その翌日には、真田幸村も徳川家康の本陣に突撃し、戦死しています。

又兵衛の叔父 後藤助右衛門は又兵衛の最期を、「お手柄源平以来有るまじきと申すとり沙汰にて御座候(まさに源平の世以来のみごとな戦ぶりだ)」と伝えています。

又兵衛のその後

又兵衛の首は、介錯した吉村武右衛門により田に埋めて隠され、その後密かに掘り出して伊予国の長泉寺にて埋葬されたと伝えられています。

その一方で生存説もいくつか残されています。

奈良県宇陀市には、又兵衛屋敷跡とされる場所に又兵衛桜とよばれる桜の木が残されており、そこで隠遁生活を送ったという伝説が残っています。また、大阪夏の陣の又兵衛は影武者だったという話もあり、大分県中津市の耶馬溪には市史跡「後藤又兵衛の墓」があります。

あくまで私見ですが、その言動から「勇猛果敢」と呼ぶにふさわしい又兵衛が、影武者を立て自らは逃げ隠れ。。というのは少し印象が違うようにも感じます。

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